旅と季節の風景と物語
2024-03-19T18:57:14+09:00
budoukyo
管理人 <budoukyo>
Excite Blog
旅の物語
http://budoukyo.exblog.jp/30477383/
2024-03-19T11:26:00+09:00
2024-03-19T11:26:10+09:00
2023-10-27T18:35:12+09:00
budoukyo
旅の物語
旅の物語
「作家が描く世界への旅」
旅と季節の風景に戻る
「旅の物語」は『JET STREAM』TOKYO FM 80.0MHzから「文字越こし」したコンテンツです。
学生時代....午前零時から始まる番組を聞きながら眠りについたものです。
表題を「作家が描く世界への旅」とし旅の風景が「短編・エッセイ」集でが綴られています。
放送番組なので放送後は消滅してしまいます。
残念だと考え「文字起こし」した内容をブログに掲載することに致しました。
「作家が描く世界への旅」は風景と音楽で構成されています。
音楽は高音質ですがお届け出来ないのが残念です。
個人的にはオンエア曲をサブスクで登録し聞いています。
ご覧いただければ幸いです。
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色で旅するハワイ
http://budoukyo.exblog.jp/30860275/
2024-03-19T10:04:00+09:00
2024-03-19T18:57:14+09:00
2024-03-19T10:15:40+09:00
budoukyo
旅の物語
旅行作家:山下マヌーと自然写真家:高砂淳二
「フォトエッセイ」
2024年3月18日(月)第一話
都会の白と言ったらあなたはどんな風景を思い出しますか?
コンクリートで固められた都会で、白という色は埋没しているかも知れません。
ところが、ハワイの白は違います。これからご案内するのは何処か主張がある「ハワイの白」の旅!
高砂淳二のハワイの白の写真と共にお楽しみください。
滝、オールドブリッジ、出雲大社の鳥居、ハイビスカス、マウイオニオン、サンドバー、モアナ・サーフライダー、コーヒーの花、コナスノー、ホワイトサウンドビーチ、ハワイの中にある白を思い浮かべた時、面白いほどスラスラ思い浮かんでくる。
本来、色のない色、白は、他の中の色に紛れてしまって、その存在を主張することなど殆どないのに、ところがハワイの白はきっちりと主張している。
白も白として、ちゃんと威張っているのは何故なのだろう!
恐らくそれは、この島に存在する沢山の色が影響しているからだろうと思う。赤があるから白が目立つのと同じ、沢山の色に囲まれた時、白が白として際立ってゆく、もしも色のない世界、例えばコンクリートで固められた場所なら白は、その中で埋没してしまう。それが証拠にマウナ・ケア山頂は一面雪景色、スノーボードだってスキーだって出来るぐらいの積雪がある。しかし、いくら標高が4205メートルとはいえ万年雪がある訳ではない。
真っ青な空の青と、雪の白とが見事なコントラストを見せる美しい瞬間も、日が暮れた後の雪に反射する怪しい月明かりも、わずかこの3ヶ月でしか、見ることが出来ない。
だけれども、そんな儚くも貴重なハワイの雪の白だからこそ、見るものが必ず感動の世界へと連れて行ってくれる。
枯れる白もある。渓谷の多いハワイでは、あちこちで糸のように美しく落ちる滝と遭遇することが出来る。
特にマウイ島の緑の中を走るハナドライブの途中、カーブを曲がると突然現れる滝の数々、これには誰もがハッとする。
しかしながら雪の白と同様、常にその白い姿を見せてくれている訳ではない。
滝が枯れてしまうのだ。
温暖化の影響なのか、滝が消えてしまうことが多くなった。
と、現地に住む友人も嘆く。
でもそんななか、ほぼ連日水を落としている滝がある。
オアフ島マノアの丘の奥に落ちるマノアホールがそれ!。
常に水を絶やすことのない滝は、ワイキキの命の源、海から蒸発した水が雲に成り、その雲がマノアの山にぶつかり行く手を阻まれ留まる、水分を多く含んだその雲から、マノアの丘に雨が落ち、その雨が滝と成って大地に落ち、川となりワイキキへと流れ海へと戻る。
そして再び雲と成ってマノアの山に運ばれ、雨となり、まさに命の源の水の循環を支える白色の滝、命の源のとても美しい滝、滝と滝の間には池があり、そこで泳いだり、滝に打たれたりして遊ぶことが出来る。
そんな体験型の滝が、何故・・聖なる池なのか?
その理由は、昔ここはハワイアン達がミソギをするためにわざわざやって来たという神聖な滝だったからだ。
訪れた者たちを純白にする・・そんな尊い滝であったと言う事を知れば、一度心を洗いに出掛けて見たく成るのでは・・、ないだろうか?
Edit : Norio Murakami
Quote:JET STREAM
2024年3月19日(火)第二話
都会の白と言ったらあなたはどんな風景を思い出しますか?
コンクリートで固められた都会で、白という色は埋没しているかも知れません。
ところが、ハワイの白は違います。これからご案内するのは何処か主張がある「ハワイの白」の旅!
高砂淳二のハワイの白の写真と共にお楽しみください。
Edit : Norio Murakami
Quote:JET STREAM
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「雪のポートレート」
http://budoukyo.exblog.jp/30850744/
2024-03-11T09:50:00+09:00
2024-03-16T11:30:47+09:00
2024-03-12T10:42:05+09:00
budoukyo
旅の物語
「雪のポートレート」
作家・町田そのこ
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2024年3月11日(月)第一話
作家「町田そのこ」書き下ろしの物語「雪のポートレート」
その男は仕事で九州に向かっていた。近年稀に見る大雪に見舞われている福岡へのフライト、機内には家族旅行の親子連れや、一人旅らしい年配の女性と様々な乗客の姿があった。
クリスマス前の羽田空港は、多くの人で賑わっていた。みな何処か楽しそうにしている。
しかし俺は・・少し憂鬱だった。
行き先である福岡が昨晩から近年稀に見る大雪に見舞われている。
福岡は時々積雪することがあるけれど、しかしそれは1月や2月に集中しており、12月に雪が降ることは滅多に無い。
ネットニュースを見ると博多駅と、その駅前に飾られたクリスマスツリーが真っ白に染まっていた。
雪慣れしていない九州の人々は、こわごわと雪を踏みしめて歩いている姿も撮影されていた。
今日は、福岡市から北九州市へ移動して、仕事を粉さなければいけなくて、雪の中の移動を思うとうんざりしてしまう。
飛行機に登場すると、嬉しそうな子供の声が聞こえてきた。漏れ聞こえるにどうやら、家族旅行の往路であるらしい。
健太という名前らしい彼は、飛行機での移動だけでなく行き先に雪が積もっていることが楽しみであるようだ。
興奮気味に話す健太は、母親に何度か、いさめられて居たようだがしかし声は怒鳴らない。
それを聞きながら、俺にも健太のような時代もあったなと思った。
彼のように、心が踊らなくなったのは、いつからだろう?何とも冷めた大人に成ってしまったものだ!
いや、そういう風に考えるのは余りにつまらない!
雪はさておいても、今回の福岡での仕事を楽しみ、そして、より良い成果が出せるようにすべきだ!意識を切り替えて行こう!
羽田空港から福岡空港まで、およそ2時間、バッグの中からタブレッドを取り出し、前もって送られて来ていた企画書をチェックする。
小さなやる気が、新しいアイディアを生み出す。
離れた席にいる健太に感謝しつつアイディアを書き留めていった。
何となく、案が纏まったのは、離陸してから1時間ほど経ったところだ。
夢中に成っていたせいか体が強ばっている。首を回し、目頭を抑え、両手をモミ擦っていると、通路を挟んで隣の席に座っていた女性が、突然、うぅん・・、と声を出して、大きく伸びをした。
ボキボキと骨がなる音がして、驚いてみると、こうしたほうが、うぅん、と、楽よ!
と小声で言ってウインクを投げてくる。美しい、グレィヘァーのひとだった。
くるくるとカールさせた髪が、縁取る顔は、少しふっくらしていて、頬が薄桃色に色づいている。
彼女は、私みたいな、おばあちゃんが平気で、貴方には、まだ恥ずかしいかしらね!
と、何処か挑戦的に笑う!
いたずらっ子のような、顔を見て、俺は大きく伸びをした。
ボキリ、ボキリと・・何処からともなく・・
彼女が目を見開いたので、俺はウインクを返した、小さく笑いながら・・
彼女は、俺の体のコリがほぐれたことに、満足したらしい!
膝に乗せていた、古い雑誌の一冊を手にとってページをめくった。
ゆっくり・・ゆっくり、Ⅰページづつ、丁寧に・・ちらりと見ればアルバムだった。
Edit : Norio Murakami
Quote:JET STREAM
2024年3月12日(火)第二話
作家「町田そのこ」書き下ろしの物語「雪のポートレート」
羽田空港から福岡空港まで凡そ2時間のフライトで出会った、一人の先輩の女性、通路を挟み隣の席に座っていた彼女は、古いアルバムを取り出してゆっくり、ゆっくりページをめくっていた。
セピア色になった写真を眺める顔を伺い見たら、さっきまでの朗らかさと変わって、しっとり、やさしい、かと思えば難しい問題紙を前にしたような困った顔をして、角度を返ながら眺めだす。
ぐるぐる動かしてる拍子に、膝から他のアルバムが滑り落ちかけ、短い悲鳴を上げて手で抑える。それを見ていたらしい、近くに居たキャビンクルーから大丈夫ですか?と、声をかけられ、はにかむように笑い返す。すべてを見ていた俺は、何とも掴み難い御婦人だな!と、内心苦笑した。自分を落ち着かせるように、深く息を吐いた彼女は再び写真に目を落とす。写真の中の誰かに会いに来る旅だろうか?昔話に花を咲かせるためのイメージトレーニング中・・・。福岡に到着した彼女を想像すると、胸の奥が暖かくなる。憂鬱だった筈だったのに、健太と彼女のお陰ですっかり前向きな気持ちに成れた。などと言いつつ、空港から地下鉄に乗り換えて博多駅に到着すると、あまりの寒さに悪態をつきそうになってしまった。九州は12月までは暖かくいてくれりゃ良い。等々を掻き合せ、グルグル巻いたマフラーに深く顔を埋める。手袋までは要らないだろうと、高をくくっていたけれど持ってくれば良かった。
駅前に出ると雪国の顔をしていた。同じ飛行機の乗客だったと思われるスーツケースを引いた会社員風の男性が、俺の隣をすり抜けていく。しかし彼は大行列の出来ているタクシー乗り場を見て足を止めた。お手上げだという顔をして空を仰ぐ。余りのわかり易さに小さく笑った俺だったが、雪で渋滞しているため迎えの車が遅れる旨のメールを受信してしまい、思わず彼と同じ仕草で空を仰いだ。立ち尽くしていても寒いばかりなので、滑らないように気をつけながら、駅前を歩いてみる。見上げるほどの高さのクリスマスツリーまで向かった。雪をまとったツリーは、華やかさと、キラビヤカさが増しており、こんな姿を見られたなら、雪も・・まぁ良いか!と、ゲンキンにも思う。それは、どうやら俺だけではないようで、寒さで見を丸めしょんぼりしている誰もが、少しだけ幸せそうにツリーの前を通り過ぎていった。険しい顔をして歩いて来た男性が、ふっと、足を止めたかと思うと、スマートフォンを取り出してツリーを撮影し始めた。真面目な顔で何度か撮った後、彼はその場でスマートフォンを操作、それで満足そうに頷いて去っていった。迎えはまだ来ない。暖かなところに移動したいが雪の中来てくれている人を思うとそうも行かない。クリスマスツリーのそばで両手に息を吹きかけていると、雪の精、いや、クリオネのような出立ちの女性が、こちらを見ているのに気がついた。白いコートにピンクのマフラーが可愛らしい。その女性のグレィヘアーを見て機内の女性だと分かった。
Edit : Norio Murakami
Quote:JET STREAM
2024年3月13日(水)第三話
作家「町田そのこ」書き下ろしの物語「雪のポートレート」
大雪の降る福岡に降り立った男は、博多駅で迎えの車を待っていた。駅前のクリスマスツリーのそばで、両手に息を吹きかけていると、白いコートにピンクのマフラーの女性がこちらを見ている。その女性のグレィヘァーを見て東京からのフライトの最中に、じっと古いアルバムを見つめていた隣の席の女性だと気がついた。スマートフォンを手にしていた彼女は、俺ではなく、俺の背にある駅舎をさつえいしているようだった。駅舎だけでなく彼女から見ると左にあるバスセンターなども撮っているらしい。撮っては写真を確認している。その仕草を何回も繰り返していて、初めて福岡に訪れたのだろうかと、思う。彼女が俺に気づいた。あっ、と大きな声を上げたかと思えば、満面の笑みで、片手をブンブン振ってくる。寒いわね!雪に気をつけて!この辺り一体に響くのでは思うくらいの声だった。俺のそばを通り過ぎて行こうとしていた若い男性が、驚いたように周囲を見回す。ここで機内と同じような返しをすることは流石にためらわれて、俺は片手を上げて頷いてみせた。彼女うは大きな視線を集めた自覚が無いようだ!いや。気にもしていないのかも知れない。俺の返事にも不満は無かったようで、無邪気ささえも感じる笑顔で・・・”良い旅を”と、やはり同じ声量で言って去っていった。雪に慣れた人なのだろうか?とてもしっかりとした足取りだった。移動に時間をとられながらも、福岡で無事仕事を終え、今度は新幹線で北九州の小倉駅に向かった。北九州市も福岡市と同じく深い雪景色で、そしてこちらでも迎えの車が遅れる、と連絡を受けた。
小倉駅は、駅舎に対してまっすぐにモノレール線が走っている、珍しい作りをしている。深々と雪が舞う中、ゆっくりとモノレールが駅舎に近づいてくる。頭上を走って駅舎に収まるモノレールを仰ぎ見た。改めて見ると、なかなか迫力がある。何やら可愛らしい声がして、視線をやれば、近くに小さな子供がいた。電車をもした靴を履いている子供は、レールを指さし、母親に、一生懸命何かを喋りかけている。寒さのせいばかりではないだろう。紅潮した頬やキラキラ輝く眼差しだけで気持ちが伝わってくる。しゃがみこんで、子どもと目線を合わせ、それを聞いている母の気持ちも・・、つい、ふと、周囲を見回してみる。福岡駅も博多駅も訪れたのはこれが初めてではない、何度だってある。2つの駅は、普段なら予定に追われ、目的地に向かって慌ただしく通り過ぎて行だけで、先のことに目を向けて居るから、その場に何の発見もないし、風景に感傷も抱かない。今日は足を止めざるをえなかっただけではあったけれども、思いがけず良い時間が出来たなと思う。通過していくだった場所に小さな煌めきを見つけられた。時には、空白を見つめる時間が有ってもいい・・。Edit : Norio Murakami
Quote:JET STREAM
2024年3月14日(木)第四話
作家「町田そのこ」書き下ろしの物語「雪のポートレート」
仕事のため、大雪に見舞われている福岡へ向かった時、東京からのフライトで、隣で会った女性は数冊の古いアルバムを手に、その写真を念入りに見ていた。グレーヘアーに齢を重ねた、その表情は、少女のような可愛らしさと、何か思い悩む影が入り混じっている。そして何の偶然か、博多駅前、小倉と、行く先々で彼女が写真を撮る姿に何度も遭遇することに成った。
北九州市内での仕事を終えた時には、日が落ちかけようとしていた。サラサラと粉のような雪が降り、クリスマスの到来を待つ、イルミネーションの光リが冴え冴えとしている。宿泊先のホテルまで送ってもらう途中、車はライトアップされた小倉城のそばを通った。雪の城というのも乙な物だ。運転手に少しだけゆっくり走ってくれないかと頼んで、視線を投げた俺は思わず、、あれっと、と声に出した。”クリオネ”、・・、機内の女性がいたのだ、彼女は、雪とイルミネーションの中で、一人、スマートフォンで写真を撮っているようだ!博多駅で見かけた時と同じく、角度を変え、何度もチェックしている。日が落ちかけ気温が、ぐんと、下がっている。女性の吐く息が、すごく白い、周囲に知り合いのような人は、誰も居ない。何故だ!彼女は博多から一人で、写真撮影し続けているのか!運転手に、ちょっとここで止めて待っていてください。とお願いして・・、車から出た。駆け寄ると、真剣な顔をしてスマートフォンを操作していた彼女が、俺に気づいた。驚いたように、目と口を開け、あらあら、、まぁまぁ、、と、素っ頓狂な声をあげ「こんなに寒いのに、貴方、こんなところで何をしてるの」!これは、、こちらのセリフではないだろうか!思わず吹き出した。そして何でこんな寒い中、一人で写真撮影なんかしているのか?というような事を聞いた。何時から外に居たのだろう?頬だけでわなく、鼻の頭も真っ赤にさせ、彼女はためらうような顔を見せて、うつむいた。「夫に、写真を送ってるの」と言いにくそうにつぶやく。
話を聞くと、彼女は、東京にいる夫に、写真を撮っては送っているのだという。彼女の夫は旅行好きであり、写真好きでもあるのだが、一年前から週に3回人工透析治療を受けないといけなくなった。これではもう旅行になんて行けないと、気落ちした夫は、長い間、愛用していたカメラと、これまで撮りためてきた「旅のアルバム」達を全部片付けてしまった。けれど、家族が居ない時に、こっそりと写真を眺めているのを、彼女は知っていた。万全の体制を整えれば、国内旅行ならば行けない事はないと、家族や子どもたちが、どれだけフォローすると言っても、夫はもう二度と行かないと言い張る。どうしたものかと考えていた時、福岡に雪が積もったというニュースが流れた。35年ほど前、福岡に夫婦で旅行した事があった。予想だにしなかった豪雪に見舞われ、雪国に迷い込んだと言いながら、夫と福岡市から北九州市を廻った。終わってみるとトラブル続きだった旅は、楽しい思い出ばかりで「何時か又行きましょう」「一緒に眺めよう」と話したことを、彼女は思い出したのだった。夫を急に連れて行くことは無理だけれど、私一人ならどうにかなる!思い立った彼女は、夫を子ども達に任せ、当時のアルバムを抱えて飛行機に飛び乗った。それで・・、過去と同じ構図で写真を撮りまくって居たっていうわけです。”はい”・・悪戯が見つかった子供のような顔をして、彼女は告白を終えた!「いい話だ」と、俺は、思わず呟いた。しかし彼女は、その悪戯で、酷く叱られたかのように、しょんぼりと・・、肩を落とした。
Edit : Norio Murakami
Quote:JET STREAM
2024年3月15日(金)最終話
作家「町田そのこ」書き下ろしの物語「雪のポートレート」
東京から二時間のフライトを経て、大雪の福岡に降り立った男は、機内で一緒になった年配の女性が一心にスマートフォンで写真を撮る様子を、博多、小倉と行く先々で目にしていた。病のせいで一緒に旅ができなくなった夫に、三十五年前の思い出の景色を送り続ける女性、だが心を閉ざした夫からは、冷たい返事が返ってくるだけ・・、だった。
博多駅に箱崎区、毛保神社、原呉山、小倉城、彼女は色んなところで写真を撮っては、夫のスマートフォンに送った。しかし夫からは、好きにしろ!、俺のことは構うな、という返事が届くだけ、終いには電話がかかってきて「こんな写真、もう送ってこなくていい」!と、怒鳴られたという。「わたしのやっていること、むしろ、腹が立つことだったみたい」「夫婦だって言うのに」「情けない」、泣き出しそうに彼女は鼻をすする。今度は迷子になった子供のような頼りない顔をしていて、俺は「その写真ちょっと見せて見て」と、つい言ってしまった。自信なさそうに彼女は、バッグから冊子を取り出す。先ずは写真を一枚ずつ確認していく。次にスマートフォンで撮影した写真を見せてもらった。時代の変化まで伺えて、なかなかいい具合に撮れている。「写真撮るのうまいね!」と言うと、「門前の小僧なのよ」と、何処か嬉しそうに笑った。彼女も又、旅と写真が好きなのだろう!「ふぅうん、ご主人の不機嫌の理由・・分かったよ」「間違いない」と付け足すと・・、彼女は「ほんと」と声を飛び切り明るくした。2つの写真を比べて足りないものがある。「御婦人・貴女だよ」彼女はキョトンとした。「こっちのアルバムの方には、貴女がいる」「時々、ご主人も写っているけど、ただの風景写真は殆ど無い」「貴女が入れば良いんじゃ無いかな?」「嘘でしょ・・、そんな」と声を上ずらせる彼女に、俺は「絶対間違えない」!と、強く言う。「嘘でない証明として、一枚撮ってみよう」「ほら・・そこに立って」「このポーズとってみて」パシャ!指示を出すと、彼女は恥じらうように、もじもじする。だって若い頃と違っ、スタイルも悪くなったし、お婆ちゃんの顔だし、なんてことを小さな声で言う彼女に、俺は言った!「ほんとに?」「もしかしてと思って同じような白いコートを着てきたんじゃないの?」セピア色に変わりかけている写真の中の彼女は、いま着ているものよりスリムな、しかも白いコートを着ていた。ピンク色のマフラーだって巻いている。色褪せているけれど、間違いじゃないはずだ。彼女がうつむいた。「もう・・いやね」「でも、私だって、お父さんと旅行に行くの好きなのよ!」「諦めたくなくて必死だったのよ」その声に俺は思わず笑った。レンズ越しに、おずおずとポーズを取ってみせる彼女を何枚も撮影した。35年前には無かったイルミネーションの光の中で、はにかむように笑う顔だけが、変わらずか愛らしかった。二人で吟味した写真をメッセージで送る。じっと画面を見続けていた彼女が・・既読・・が、付いた、と息を吸う。少しの場の後、花が静かに開くような、笑顔が生まれた。今日の彼女のいろいろな表情の中で・・”飛び切り美しい顔だった”「あぁ、この顔を撮ってあげればよかったな~」一瞬だけ、残念な気持ちが湧いたが・・、いや、この顔は・・東京で待つ夫こそが撮るべきだと、思い直す。「じゃぁ」と片手を振って、彼女と分かれた。背中に・・「ありがとうね!」と、大きな声がかかる。温かな、車内に戻ると冷え切っていた鼻の頭が、ツンとした。「寒かったでしょう」と、運転手が暖房の温度を上げてくれる。それにお礼を言って目を閉じた。なんてこと無かった日常が、彼女と出会って、良い思い出の旅に変わった・・。彼女と彼女の夫にとっても・・そうであったら良いなぁ・・。と、願う。
Edit : Norio Murakami
Quote:JET STREAM
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オーストラリア滞在記
http://budoukyo.exblog.jp/30839225/
2024-03-04T14:16:00+09:00
2024-03-09T14:34:11+09:00
2024-03-04T14:16:50+09:00
budoukyo
旅の物語
女優:中谷美紀
ドイツ人男性と結婚し、想像もしなかったオーストリアでの田舎暮らしが始まった。朝は、掃除と洗濯。午後には買い物に。当初はお肉屋さんに行くも注文が伝わらず、動物の鳴き真似をしたことも。晴れた日には、自らスコップを握り、汗だくになっての庭造り。慣れないドイツ語の学習には四苦八苦。
2024年3月4日(月)第一話
中谷美紀は1976年東京生まれ、数々の映画、ドラマ、CMに出演、絵本、エッセイ集、撮影日誌の刊行など、その活動は多岐にわたる。
2016年にビオラ奏者「ティロ・フェヒナー」氏と出会い、後に結婚、想像もしなかったオーストラリアでの田舎暮らしが始まる。
「オーストラリア滞在記」は、そこで迎えたコロナ禍での生活を綴ったエッセイである。
今日は、その第一話、
5月1日人生初の「ロックダウン」
3月18日の深夜に羽田発、ウイーン行の直行便に飛び乗って以来、人生初の「ロックダウン」を経験し、ザルツブルグの自宅に籠もっていた。
夫の「ティロ・フェヒナー」も所属する管弦楽アンサンブル「フィルハーモニック」の中国ツアーと、アメリカツアーが、軒並みキャンセルとなり、3月、4月と完全なコロナ失業の憂き目に遭った。
国境を超えて、すぐお隣は、大量の死者と医療崩壊にあえぐイタリア、それとオーストリアでのクラスター発生源となった、イスキルのスキーリゾートが近かったので、気管支が弱く、風邪を引く度に、喘息のような咳が止まらなくなる私は、万が一の場合に、重症化し易いのでは無いかと恐れている。
実際、夫も、4月のある一週間、発熱に見舞われ、毎晩数回、寝巻きを着替え、シーツも取り替えるくらい汗をかいていたうえ、咳の症状もあったことから、感染が疑われ、自ら車を運転して、ドライブインの検査場にてPCR検査を受けることになった。
結果は、幸い陰性で、あれは一体何だったのだろう?
と、疑問に思いつつ、出来る限り外の接触を避けている。
速急に、国境を封鎖して、禁止令を発令したことが、総じて死者を最小限に抑えることが出来たことと、恐らく経済界からの強い圧力により4月27日からは、少しずつ規制が解除され初め、400平方メートル以下のお店の再開が、許される事になった。
解禁初日には、バウマーフトという、日本で言うホームセンターにて、行列が出来たことがニュースに成るほどで、オーストリアのお国柄を示していた。
庭仕事に、家屋の修繕と、DIYで何でもこなすこちらの人々にとって、ホームセンターはスーパーマーケットと同じくらい通い成れた場所らしく、週末と成れば駐車場までの行列が続くほどで、少々のことでは業者に依頼などせず、自分たちで何でもこなしてしまう。
私達が暮らす、ザルツブルグの山中に位置する家も、私が夫に出会う数年前に以前の所有者から買い受け、使える資材は残しつつも、古材を扱う材木屋さんにて、建材を吟味し、大工さんと共に、自ら改装したという小さな山荘で、彼は今日も庭造りに励んでいる。
家の前の傾斜地は、以前の所有者の趣味により、コニファーや、木香バラ、松の木などが植えられていたのだけれど、何れも私達の好みではなく、放ったらかしにしていたため、樹形も乱れ、手の施しようがなくなっており、数年かけて少しずつ植栽を植え替えるつもりだった。
何時もなら、夫はリハーサルにコンサートにオペラにと、ザルツブルグに滞在する夏の期間は、全くゆとりがなく、わたし一人では過酷な労働は一向に進まない。
ところが、幸か不幸か、コロナ禍により、時間にゆとりが出来たために、手つかずだった伸び放題に伸びていた雑草の除去を初めた。
冬の間、雪に耐えた雑草や、宿根草は、春の陽気を感じて、我先にと顔を出し、タンポポは勿論、アジュガやイシゲ、忘れな草、ムスカリなどが、草間に彩りを添える。
こちらで、ベルラウフと呼ばれる、行者ニンニクのようなハーブも樹勢して、松の実とオリーブオイル、バルニージャノレッチャーノ等と共にパスタソースにすると、ニンニク無しでも香り高く、美味しい、ジャノベーゼ風ソースを作ることが出来る。
Edit : Norio Murakami
Quote:JET STREAM
2024年3月5日(火)第ニ話
5月1日人生初のロックダウン(後半)
オーストリア、ザルツブルグの山荘に暮らす中谷とドイツ人の夫「ティロ」二人は、自分達らしい庭、について構想を練っている。
オーストリアに来た最初の年には、まだ客人気分で庭に、自らの好みを反映する気には成れなかったし、そもそも日本の山野草や苔庭が好きだったため、西洋の庭をどうしたら良いかも分からなかった。
夫と私で意見が一致しているのは、自動芝刈り機で定期的に3センチに切り揃えられた芝生や、柄がシザーハングのトピアリーのように人工的に刈り込まれた針葉樹、チューリップやパンジー、バラのアーチなど、ガーデニングのお手本のような庭は、好みでは無いことだった。
この数年間で、少しずつヨーロッパの庭巡りをしてみたり、今まで見てきた庭の記憶を辿ると、パリのアンドレシトロエン公園や、ケ・ブラディ美術館の庭を手掛けた、ジルクレマン、北海道の「十勝千年の森」を手掛けたダンピアソン、そしてニューヨークのハイラインの植栽やイギリスのハウザー&ワースサマーセットの庭を手掛けた、ピエトオウドルフが私達の琴線に触れる繊細で自然の営みに配慮した、メドウガーデンを提唱していた。
ジエクレマンとピエトオウドルフの庭は、既にいくつか訪れ、彩り豊かな花の季節だけでなく、秋風のそよぐグラス類が美しく、冬枯れの姿さえも芸術的に美しく見えるよう計算しつくされ、それでいて自然になせる技によって変化することも受け入れる懐の深い庭造りに感激した。
残念ながら、十勝の森は、まだ訪れることが叶わずのままだけれど、いつか訪れたいと思っている。
ウインフィルのホルン奏者、セバチャンマィヤー氏は、決死の植物フリークで、世界中の植物の種子を集めては、自らが所有する原野に植え付け、今や原野と化したその場所を愛ででいるという。
宿根草の専門店や、ザルツブルグの、マイヤーという園芸専門店を紹介してくれたのも彼だった。
既に庭の一部では、2年ほど前から、ススキやパンパスグラスを植えてみたり、裏山のシダを少々頂いてきて、移植したりセバッシャンのお勧めで買った、宿根草セットを、植えこんだりしてこの土壌との相性や、湿度の具合や耐寒性の実験をしていた。
オーケストラでは、プレーヤーとしての仕事に加えて、ツアーマネージャーとしての仕事や、毎年シェーンブルーン神殿の庭で、開催され、約13万人が訪れるサマーナイトコンサートのプロジェクトマネージャーとしての役割も担い、常に無駄なく効率よく仕事をこなすドイツ人気質の夫と、面倒な仕事を後回しにしがちな、怠惰な私とでは、庭仕事に対する姿勢も異なり、更に独自の美意識に持っているため、しばしば言い争いにも成るのだけれども、この数年間で感覚的に学んだ、庭のあり方をもとに、ガーデンマネージャーの真似事を、私が、庭師の真似事を夫が担当し、二人の素人が必死で、一大プロジェクトを進行中なのだった。
その一方で、コロナ禍の影響により、ドイツ語のオンライクラスも受講している。
本日は洋服について、更には交通標識についての描写を復習した
ティタイムに、そば茶とパフチヌア、麻の実、ひまわりの種を混ぜた、チョコチップクッキーを・・今日は結構美味しく焼けたと・・思う。
Edit : Norio Murakami
Quote:JET STREAM
2024年3月6日(水)第三話
5月2日「ガーデニング哲学」Ⅰ
ドイツ人で、ウインフィル・ハーモニー管弦楽団のメンバー、「ティロ・フェヒ」氏と結婚し、オーストリア・ザルスブルグの自宅で過ごす。コロナ禍の毎日、4月の末に一部の店が再開し、夫婦は自分たちの庭を作り始めた。
早起きをして、オーバーエスターライヒスへ車を走らせること1時間半、希少な宿根草やグラス類を扱う園芸専門店ザラストローを訪れた。
こちらのホルン奏者のセバスチャンの紹介で、ザルツブルグの専門店では扱っていないグラス類、そして木陰に植えるための陰性植物を求めて、はるばるやって来たのだった。コロナ禍により、人も車も少ない道をひたすら走り続け、ヒットラーの生まれた街、ブラウナウ・アム・インを通り過ぎて、たどり着いたその場所は、広大な敷地の一面に、まだ芽吹いて間もない植物の苗が引き詰められ、グラスがそよぐ庭、宿根草の庭、陰性植物の庭など、モデルガーデンが幾つも展示されたワンダーランドで、わずか2~3名の先客達は、各々目的の植物の学名と、ドイツ語を示したメモを手に苗を吟味していた。
降雨が予想されていたにも関わらず、空には晴れ間が覗き、オーナーのクリスチアンクレス氏が、自ら大切に株分けをしたり、採取した種から、実生で手掛けた植物の苗たちが、来る夏の季節に向けて、葉を伸ばそうと生命力を、みなぎらせていた。
探究心に溢れた10代の頃に、書店や映画館を訪れた際の血が騒ぐ感覚、美術館やギャラリーにて、好みのアーティストを、発見した際の興奮が蘇り、思わず声を上げそうになった程、そこには私の好きな植物たちが果てしなく並べられていた。
先ずはモデルガーデンを渡り歩いて、5月2日「ガーデニング哲学哲学のようなものを、嗅ぎ取ると、除草や木々の選定などを、最小限にとどめ、極力自然に近い形で、庭を保っていることが感じられた。
咲き終わった花が、萎れた様もそのまま・・、グラスも冬枯れの様を留めてあり、余白を埋めようと、開花したばかりの新たな花を、必死に埋めた形跡もなく、恐らくその場に植えた宿根草が、何年も繰り返し花開き枯れてゆくに任せているのだろう。
黒い、フワフワとしたハーブのようなものが、至るところに植えられており、興味をそそられて、株を見るとフェンネルであることが判明した。
ハーブに特化した庭でなくとも、ブラックフェンネルを植えることで、庭にゆるさが加わり、正しい庭と、いうよりは、無造作な庭になるのだと学んだ。
さて、いよいよ我が家に連れ帰る植物の選定に入り、黒いネット状のテントの下を覗いてみると、幾多のギボウシが並んでいた。
どうやらそこは、陰性植物のコーナーで、大小様々、フの入った物や、青緑の美しいものなど、それはそれは、選び甲斐があった。
できるだけ、野山に生息する姿に近い植物に近いものをと思い、あ~でもない、こ~でもない、と吟味していると、自然と戯れる人物特有の、地に足の付いた空気をまどい、それでいて、諦念を含む笑みをたたえた、ホーナン・クリスチアン・クレス氏が現れた。
これは、小さいまま、大きくは成らないから、大きいものや他の陰生植物と組み合わせるといいよ!
と、説明してくれた。
我が家にも、幾つか陰性植物に適した場所があり、山の植物を移植して来たりはしたけれど、シダに寄り添う陰性植物がこんなにも沢山あるなんて、ついつい浮足立ってしまう。
大きな鈴蘭のような、美しいアマドコロも発見し、3株ほど頂くことにした。
Edit : Norio Murakami
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2024年3月7日(木)第四話
5月2日「ガーデニング哲学」Ⅱ
ザルツブルクの自宅から1時間半かけ、貴重な宿根草やグラス類を扱う園芸専門店ザラストロを訪れた。
できるだけ自然に近い庭を目指す二人は興奮気味に買い物を続ける。
夫はパッと決めて、帰りたそうにしているけれど、ガーデンデザインを脳内でシュミレーションしつつ、苗が成長した果てのボリューム計算をしながら選ぶには、どうしても時間がかかる。グラス類の選定は本当に大変で、僅か10センチほどの苗の姿と、ドイツ語名、学名から、庭に植えられた事を想定して、個数を決めるのは容易でない。
このたび、こちらまで出向いた最大の理由が、ドイツ語でランペンプッサーグラス、直訳すると(ランプクリーナー草・学名をセニセタム)いい、日本語では力芝に相当するネコジャラシに似たグラスで、これもまた幾多の種類が並んでいた。
ジャポニカという種類が、70センチぐらいに成るとの説明書きで、株を吟味していると、再び何処からともなくクリスティアン氏が現れ、お勧めはキムズナイトメアだよ、黒い穂が美しいからね!と教えてくれた。
そこで、ジャポニカキムズナイトメアを迷わず大人買い。プリティウーマンで、ジュリアーロバーツ演じる娼婦が、リチャーギァ演じる裕福な色男に、ラグジュアリーブランドの洋服や帽子、靴などを、買い与えてもらい、両手に余るほどのシヨッピングバッグを持って歩く姿が、印象的に描かれていたけれど・・・、こちとら両手どころか、3台の台車に余るほどの苗を買い占めて、上機嫌である。
他の園芸店と比べ、こちらの顕著な違いは、多くの植物の札が、1枚1枚、手書きで、よその生産業者から仕入れた品を並べて居るのではなく、オーナー自ら苗をこしらえていることが読み取れるのだ。
彼は、かってオランダで仕事をした経験もあり、私達の憧れのガーデンデザイナー、ピエトオウドルフとも友人だという。
実際に、ピエトオルドルフは、このザラストロを訪れて、植物を入手したりもしている。
中でも、イヌゴマ族のヒサヒスブンメイは、ピエトオルドルフのお気に入り、と札に描かれている。
その理由は、冬にも朽ち果てることもなく、葉や茎を地上に残すことだという。
雪を纏った野草の庭、メロウガーデンの、鳥肌が立つほどの美しさは、こうしたウンメロや球状の花をつけるアイウムなどの枯れた姿が作り出して居るのだと確信した。
ランドオーヴァーのリフェンダーと共に、イギリス中を疾走し、あらゆる植物の種をハンティングしてきたという、クリスティアン氏は、ガーデンデザイナーではなく、園芸人を標榜している。
夫いわく、園芸人とガーデンデザイナーに関係は、ヴァイオリンメーカーとヴァイオリニストの似ているらしい。
それぞれに適した分野があり、植物オタクにとっては、世界中を旅して、見知らぬ植物と出会い、その性質を見極め、成長を見守り、株を増やすことが、最大の楽しみなのだろう。
彼の好きな作曲家が、バッハ、サティ、ブルックナー、マーラー、ドビッシーなどであること、高感度が高いし、人工的なチューリップも水仙もパンジーも、彼のフィールドでは見かけない。
ガラストロという店名もモーツァルトのオペラ、マセキニテ、フリーメイソンの長として登場する人物の名と同じあるところが、心憎い。
雨の予報を気にして早く帰り、庭仕事に着手したがっていた夫も、クリスティアン氏の気さくな対応と、扱う植物の豊富さに魅了され、あれや、これやと、台車に乗せていた。
Edit : Norio Murakami
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2024年3月8日(金)最終話
5月2日「ガーデニング哲学」Ⅲ
園芸専門店「ガラストロ」へ・・、オーナーのクエス氏の哲学に共感、大量の苗を購入した中谷と夫のフェヒの二人は、早速庭造りに取りかかる。
数々の園芸紙に寄稿し、ヨーロッパの園芸界では、その名を知らない人は居ないというクリスティアン・クレス氏の著書に「ブラックボックス・ガーデニング」がある。興奮気味に大人買いをした私達に、プレゼントをしてくれた、その本のページを早速めくってみると、張著のエンゲイエディターの言葉で”春の訪れを急ぐかのように植え付けられる開花した花、花期が終わるなり破棄される植物、自動芝刈り機で、2センチに整えられた芝生、雑草を制するためのコンクリートや石のパネル庭に据えられた陳腐な仏像が現在の庭を殺している!と書かれた前書きが、私達の理想とするガーデニング哲学と相似しており、思わず笑ってしまった。
ブラックボックス・ガーデニングとは、多年草や宿根草のみ成らず、1年草、2年草を、あえて組み合わせ、風に任せて、種が庭の何処かに落ち、予想外の場所から未生で芽吹くのを楽しむ、ガーデニングのスタイルだそうで、多くの方々が求める伝統的で正しいガーデニングとは真逆の、植物の生命力を信じ、多様性を受け入れるガーデニングスタイルなのだという。
それは、ジムクレマンの荒れ地ミスが愛おしい眼差しを向ける「動いている庭」との概念とも重なる。
人間のエゴで自然を制するのではなく、多少の手は入れつつも、自然に逆らわず、在るがままを受け入れる考え方は、人間の生き方にすら、深い示唆を与えてくれる。抜いても抜いても、果てしなく生えてくる雑草と戦うのではなく、幾つかの本当に不用な雑草のみを抜き取り、雑草とて、美しいものは残して共存野道を探るという選択的除草という考え方も狭義には同じ潮流なのだろう。
午前9時から12時の閉店ギリギリまで、まるまる3時間、何時までも飽きることなく、植物を眺め、午後は斜面にくらえ付く庭師フェヒの不毛の地に於ける開拓民並の過酷な奮闘を見守る。
しぶといグラスの根と、固い石の山が作業を阻み、彼の体に負担をかけるのだけれど、一度なにかに取り組むと、休む間もなく集中して取り組む彼に、私の制止など役に立たぬことは、この数年で学んだ。
3000m級の雪山に、一人分け入り、スキーで滑り降りてきたり、ロードバイクで7時間のツアーに出たりと、常人の想像が及ばないことを、平気でやって退ける人間だからこそ、国立歌劇場管弦楽団やウイーンフィルの一員として、過密なスケジュールにも、音を上げることなく、演奏し続けることが出来るのだろう。
いかに辛かろうと、彼の好きにさせるのが何より、いいのだ。
夫の苦行を傍目に、私は陰性植物を木陰に植え付け、美しい植物達の姿を眺めて愉悦に浸る。
夕食は、冷蔵庫のあり合わせにて、モロッコインゲンを茹でてベランデの塩とブラックペッパー、オリーブオイルとゴマで和えていた。
庭から摘み取ったサラダ菜には、鮎の魚醤とココナッツシュガー、ライムで味をつけたひき肉、タイ風ラークムーサラダを合わせる。
メインのパスタは、そば粉のフジッジを鶏肉のトマトソースで、ハーブ・ガーデンからフレッシュなオレガノを添えて・・
コロナ禍でウックスとした日々を送っていたものの、久々に良い一日だったと思う・・。
Edit : Norio Murakami
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風船のマハ
http://budoukyo.exblog.jp/30829403/
2024-02-21T10:55:00+09:00
2024-03-02T09:27:34+09:00
2024-02-27T12:31:12+09:00
budoukyo
旅の物語
作家:原田マハ
2024年2月26日(月)第一話
「カフーを待ちわびて」「キネマの神様」など、数々の話題作などを手掛けてきた「原田マハ」、更に美術館勤務、シュレーターとしての経験を活かし、美術に纏わる小説を、多く生み出してきた彼女は、アートと物語を求めて、世界中を気の向くままに、風天の度に出る。
日本各地や世界の都市を旅する時、全く無目的に移動するのも楽しみだ。
友人がいる場所に出かけていくのは格別に楽しい。
単なる旅行や、仕事で行った時には、飽くまでもよそ行き顔だった町が、その場所に住む友達が出来た途端に違う輝きを放つから不思議だ。
旅先で友が待っていてくれる。と考えるだけで心が弾む。
何時行っても親しく迎えてくれる友人たちが、世界中の都市に存在する。
その友人たちのお陰で、私は何処へ行くにも寂しくないし、その友人たちが居ればこそ、必ず彼らが住む場所に帰ろう。と、いつも思う。
従って、また旅から旅へ、友人たちに合うために、彼らの家を訪ねて動き回る羽目になる。
さしずめ「人生の友」元気で居る限り生涯を通して会いに行くだろう。
その友人たちの名は「アート」、そして彼らの住む家とは「美術館」だ。
長らく、美術関係の仕事をしていたために、アートを見に行く、美術館を訪問する。
ということが、何時の間にか、自分にとっては特別のことではなく、ごく自然なことになっていた。
しかし、かつての私の、お仕事で美術館公式訪問、と今の私の友人の住む家に遊びに行く感覚には全く雲泥の差がある。
もちろん、今の方が断然楽しい。
私は、単なるアートを愛する一個人に過ぎない。
大好きな友人たちを尋ねる思い、一つだけ胸に抱いて、美術館を尋ねるのだ。
私は、もうどの会社にも美術館にも属していないし、特に美術館系の仕事をしているわけでもない。
お気に入りのジーンズとフラットシューズ、財布と入場券の入る小さなポシェットを肩から下げて、両手は空っぽにする。
最低限の事前情報をネットでチエックして、後は頭を限りなく空っぽにしていく。
彼らに会って「元気だった」と心のなかで思いっきりハグするために、両手は空けておくんだ。
彼ら語りかけてくる言葉の数々、愉快で、エキサイティングで、時にしみじみと悲しいこともある。
しっかりと、受け止めるために頭の中も風通しを良くしておくのだ。
美術関係の仕事を潔く止めてしまって、いまアートは、私の本当の友達になった。
私達は、お互いに真実の眼で見つめ合い、お互い心を通い合うことが出来る。
彼らの家、美術館を尋ねる度にそう感じずには居られない。
さて、数えきれない多くの友が住む、素晴らしい家がパリにはある。
何時も、パリにやって来ると、あの美術館にも、この美術館にも、と血相を変えて走り回るのが常だった。
会いたい友達が多すぎる、というのも痛し痒しではある。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月27日(火)第ニ話
世界で最も有名な家の一つ「ルーブル美術館の話」
以前からルーブル美術館が、毎週金曜日に夜9:45まで開館していることは知っていた。
まめに通える立場にあっては、この夜ルーブルで、全館制覇に挑もうじゃないか!
と、まぁ、友人宅を気軽に訪問の予定が、何時の間にか、美の殿堂制覇へと変容してしまった訳だが・・
一度でも、パリ観光に行った事のある人ならば、それは即ち一度はルーブル美術館に行ったことがある。ということに成るんじゃないだろうか?
しかし、これまた、多くの人が、時間があまり無くて、じっくり見ることが出来なかった。という、思い出を共有して居るんじゃないだろうか?
しかも、館内がとんでもなく広くて、自分の居場所を失ったしまう。
お目当ての、モナリザを見に行くつもりが、何故か、エジプトのミーラの前に行った、なんて経験が有るかも知れない。
私も、ルーブル初心者の頃は、全くこの口で実は怖い体験もした。
初めて、夜のルーブルを訪れた時に、夜なのに美術館に居ると言う事実にすっかり興奮してしまった私は、館内案内図など見ずに、感覚の赴くまま、ギャラリーの奥へ奥へと、迷い込んでいった。
頭の中は、一人アートカーニバル状態だったと思う。
ギャラリーは、奥へ行くほど人気がなく、私は次第に、自分の居場所も、時間の感覚も、全く失っていった。
バタン、と背後で大きな音がした。
気がつくと、ギャラリーのドアが閉められている。
あっ、、と思って慌ててもう一方のドアへ走った。
タッチの差でそのドァもパタンと、閉まる。
向こう側から閉めているので、人気が見えず、ドアが勝手に、どんどん閉まって行くように見える。
流石に、ゾッとした。
誰も居ないギャラリーで、ぐるりと取り囲む肖像画が、一斉に私を見つめる。
これは、本当に閉じ込められてしまうかも知れない。
と、焦った。
ギャラリーからギャラリーへ、出口を探して本気で走った。
ようやく、出口へたどり着いた私は、その日最後に館内から出てきた人間だった。
命拾いをした、と思った・・。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月28日(水)第三話
彼女が実家に帰ってきたような感覚に陥る「オランジュリー美術館」だった。
ルーブル美術館まで広がるチュイルリー公園の一角に、訪れる度に、その美しさにため息が漏れる睡蓮の池がある。
しかも、その池は美術館の中にあるのだ。
「オランジュリー美術館」の入り口から、真っ直ぐ入っていくと正面に、楕円の形をしたギャラリーがある。
このギャラリーの壁一面を埋め尽くしているのが、クロード・モネの描いた晩年の傑作「スイレン」なのだ。
モネは40代になってから、ノルマンディ地方にある小村、ジヴェルニーの古民家に居を定めそこに理想の庭を作って制作に励んだ。
時々刻々と移ろう、陽の光や、大気をカンバスに描しとることに執念を燃やした彼は、一方で美しい庭造りに愛情を注いだ。
庭には、大きな池を作り睡蓮を浮かべた。
池にかかる太鼓橋は、日本美術に深く傾倒していた、モネの趣味が色濃く出ている。
モネは、この池の畔にイーゼロを建て、降り注ぐ陽光のもと、或いは暮れなずむ夕陽の中で、何枚もの睡蓮の絵を書いた。
モネは、自分の死後に、一般公開することを条件に、他にも楕円形の展示室や自然光を入れるなど、展示する際の細やかな指示も踏まえて、巨大な睡蓮の壁画をフランス国家に寄贈した。
モネの死後、政府はこの作品を展示するために「オランジュリー美術館」を建造したという。
私は、もう何度のオランジュリー美術館を訪れたか数えきれない。
パリに行く度に、ホッと一息つくために出掛けている。
あぁ、またバリに帰って来たんだなぁ・・と、しみじみとした思いが胸に迫る。
この美術館、実はパリ市内の美術官んで、最も早く開館する。
そして、朝一番で訪問すれば、素晴らしい体験が待っている。
楕円形の展示室の天井からは、薄っすらと自然光が入るように設計されているのだが、午前中の光がより睡蓮の池をより輝かせ、まるで本物の池の辺りに佇んで居る気分になる。
睡蓮の壁画は、隙間へのカーブした壁に沿ってぐるりと展示されている。
まさに、鑑賞者は、池に囲まれているような錯覚に陥る。
自分が見た通りの風景を、この絵を見る人にも、体験させたいという効果をこそ、、モネは狙ったのである。
朝、昼、夕、宵、夫々の空と雲を写した、鏡のようなすい、かすかな風が吹く直前、ハラリと長い枝葉を垂らす柳の木、そして今しがた夢から覚めたように、白い顔ホコバせている睡蓮の花は、この世界の最も良き物、無垢な風景が、ここに集められている。
そんな、、気がする!
展示室の中央にあるベンチに暫く座って、室内に入ってくる人々の表情を、観察して居たことがある。
足を踏み入れた瞬間、どの顔にも光がさし、ぱぁ・・と輝くのを見た。
誰もが息を呑み、わぁ・・と、小さく歓声を上げ、吸い込まれるようにして、絵の近くへと歩みよる。
アートは、人を幸福にする。
それを実証するかのように、人々の顔を目撃して、私は何だか、とても、嬉しかった。
原田マハ(作家)「ジヴェルニーの食卓」
2024年2月29日(木)第四話
マチス、ドガ、セザンヌ、モネ、数々の美の巨匠達に纏わる物語を生み出してきた「原田マハ」
そこには、原田自らが訪れ、故郷の情景や人生が綴られている。
前々から訪れたい、訪れたいと、願いつつ、何故かタイミングが合わずに行くことが出来ずに居た、南仏「エキス・アン・プロヴァンス」を遂に訪れた。
「エクスアンプロヴァンス」といえば、何年か前にパリ好き女子の間に、大ブームになったエーリアである。
イメージとしては、何処までも続く、ラベンダー畑の向こうに、素朴な田家が立ち並び、こぼれ日が眩しいテラスで、たっぷりの蜂蜜を垂らした、焼き立てのパンで熱々のカフェオレと、ともにいただきつつ、仰ぎ見れば青空の中にポッカリと浮かび上がるサントヴィクトワールの山頂・・、そういうビジュアルが漠然と私の中にあった。
本や雑誌を、せっせと眺めて、勝手な思い込みで作り上げた、ビジュアルであったが、これが、以外にも外れていなかったことを行ってみて知った次第である。
さて、プロヴァンスで、最も有名なものといえば、ラベンダーでも、蜂蜜でもなく、それは画家「ポール・セザンヌ」である。
誰が何と言っても、セザンヌなのである。
こればっかりは、私の思い込みではなく、実際にエキスに行ってみると、街角のあちこちで、ここはセザンヌの街なんだなと実感できる。
例えば、街の中心部には、セザンヌのリンゴの絵のバナーが下がっているし、スーベニールショップではペンだの、ノートなど、バッグだの傘などとセザンヌの絵のモチーフが使われたグッズが売られていたりする。「シネマ・セザンヌ」などという名前の映画館もあった。
セザンヌは1839年、エクスアンプロバンスで生を受ける。
父は銀行家で、地元では有名な裕福な家庭であった。セザンヌは絵を書くのが大好きな子供だったようである。
そんなセザンヌが、助けたのが、虐められていた下級生の友人「エミール・ドラ」だったという。
ドラといえば、19世紀後半のフランスで、最も知られた作家の一人である。
後に、文学史に名を残す作家と、美術史に変革をもたらして、モダンアートの始祖となる画家、その二人が中学生の時に出会った。
しかも、セザンヌがドラを窮地から救ったって、これ”巨匠萌”するエピソードではないか!
1861年、セザンヌは、本格的に画家に成ることを志してパリに行って、実家から仕送りをして貰いながら、33歳に成るまで、セザンヌはパリで黙々と絵を書き続けた。
その間に、製本のお針子をしていた「オルタンス・フィケ」と知り合い、息子のポールが生まれる。
しかし、セザンヌは、オルタンスとポールのことを実家に隠し続けた。
身分違いの内縁の妻の存在を、父に知られようものなら、仕送りを止められてしまうかも知れない、と考えたようだ。
画家としての力量は充分にあったのだから、手っ取り早く売れる絵を描けば、妻子を養って行くことも出来たも知れないがセザンヌはそうしなかった。
例え、全く売れなくても、世間から認められなくても、自分が書きたいものしか描かない。というポリシーを貫いた。
その頑固さこそが、結局はセザンヌの真骨頂なのである。
Edit : Norio Murakami
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2024年3月1日(金)最終話
美術館勤務やアートクリエーターのキャリアを経て、数々のアートに纏わる小説を生み出してきた「原田マハ」
取材のため、世界各地を旅する中、プロヴァンスの空気と風にこだわった画家、ポール・セザンヌの足取りを求めて彼の故郷、フランスの「エクス・アン・プロヴァンス」を訪れていた。
晩年には、小高い丘の上には、理想のアトリエを建てアトリエ内の生物やエクスを見守るようにして聳え立つ「サント・ビクトワール山」や「ビディビスの石切り場」など故郷の風景を多数描いた。
私には、かねて「エクス」を訪問した暁には是非とも確認してみたかった事があった。
それは、故郷の風景や、理想のアトリエの風景がセザンヌにどう見えていたか!ということだった。
御存知の通り、セザンヌの絵には、複数の視線が存在する。
つまり、対象物を一つの定まった場所から描きだすではなく、複数の視線から見た情景をカンバスの上で一つに纏め再構成する。
という離れ業をセザンヌはやってのけたのである。
一体、この魔法のような再生術はどうやって生み出されたのだろうか?
そして、何故また、そんな手法を思いついたのだろうか・・という謎が、セザンヌの作品を見るために私の胸に湧き上がった。
それはつまり、セザンヌには、どう見えていたのか?という疑問だった。
どう見えていたのかを確認するには、セザンヌが見ていた風景を実際に見て見るほかはない。
そんな訳で、私はエクスに到着してすぐ、セザンヌが亡くなる直前まで、そこで生活していたというアトリエへ出掛けていった。
その場所は、セザンヌの生前のままに保存されているという。
さて、どんな感じだろう!
と、まるで制作中のセザンヌを尋ねるが如く胸を高鳴らせて私は足を踏み入れた。
そして・・あっけにとられた。
セザンヌのアトリエは、ほんとに、もう、びっくりするぐらいなんてことのない空間だった。
スッキリと高い天井に、北向きの大きな窓、壁に作りつけられた棚には、水差しや、ボールや皿などが雑然と並ぶ。
小さなタンス、キューピットの石膏像、どれもがなんてことのない、いや、なんてこと無さすぎるものばっかりだった。
えっ・・、これだけ?
と、拍子抜けするくらいの素っ気なさだ。
私は、棚に近づいて、そこに並んでいる他愛のないものを、つくづく眺め、そして改めて驚いた。
これ程までに、なんてことのないものを、セザンヌの筆はあれほどまでに、いきいきと魅力的にカンバスの上に再生したのだ。
その事実にこそ、私は驚愕した。
そして、改めて深く感動した!
結局、セザンヌには、どう見えていたのかという謎は解けないままだった。
しかし、分かったことが一つある。
セザンヌの目に写ったものは・・、すべてセザンヌになった。
と、いうこと。
それはつまり「エクス・アン・プロヴァンス」という街がセザンヌの化身なのだ!
と、云うことだった。
エクスの街にいるあいだじゅう、私はセザンヌの腕に抱かれているようだった。
モダンアートの父が、修正愛した街が、至福のひと時と成ったのは、言うまでもない・・。
Edit : Norio Murakami
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『ハワイの50の宝物』Ⅲ
http://budoukyo.exblog.jp/30817414/
2024-02-19T08:55:00+09:00
2024-02-24T11:48:55+09:00
2024-02-20T09:01:58+09:00
budoukyo
旅の物語
自然写真家:高砂淳二
2024年2月19日(月)第一話
多種多様な人種が生存し、様々な海洋生物が生息する懐の深いハワイならではの、宝物をご紹介します。
ハワイと言えば、ハウイアンと欧米人の他に、日系人や中国人、フィリピン人、韓国人など、実に様々な人種の人々が、それぞれの祖国の生活様式を残しつつ、比較的、上手く溶け合って暮らしている、いわば共存が最も進んだ地域の一つと言えよう。
そんな人間の進歩に、一役飼ったのが「シュガーチェン」サトウキビだ。
もともとは、古代ポリネシア人が、カヌーによる航海で、ハワイに積んで来たと言われるもので、昔のハワイアンは家の近くに植えて航海に出たときの糖分補給、味付け、クスリ、歯磨きなどに利用していたようだ。
その「シュガーチエン」が、大規模なブランテーション産業にまで発展し、労働力の不足を補うために、東洋の国々から移民を受け入れた。
日本からも、山口、広島、熊本、沖縄などから多くの移民が渡っていった。
今の日系ハワイアンの元となった人々だ。
ハワイに住む日系の人達は、日本に住む僕ら日本人よりも、何となく大らかで、にこやかな印象を受ける。
それと同じことが、他の国の移民の人達にも当てはまり、だからこそ、同じ場所でも共存が可能になったのかも知れない。
豊かな、シュガーチエンをも育んできた、ハワイの大地の包容力なのだろうか!
マウイとカホオラウエの間にモロキミという三日月型の小さな島がある。
これは、元々火山のクレーターなのだけれども、その半分が海底に沈んでしまったので、こんな奇妙な可愛い形になった。
三日月の中の海と、外側の海は、地形や潮の流れがかなり違うので、魚やサンゴの形が一変する。
そのため、小さな魚の群れから、大きな回遊魚、マンタ、クジラまで、色んな魚に会えるチャンスがありとてもワクワクする海域だ。
今は、餌付けが禁止になっているだろうが、以前は魚の切り身や、パンなどを持って餌付けをしていたものだから、水に飛び込んだ途端、餌を持っていようが、いまいが、鮮やかな黄色のレモンバフライフイッシュなどの小魚達が、大きな玉となって、ダイバーの周りに押し寄せて来たものだ。
水中に潜っても、そのまま暫く、巨大な金魚のフンみたいに、後ろから着いてきて、まるでピラニアにでも追いかけられて居るようだった。
今も、その時の名残で、小魚が近づいて来たりするけれども、モロキミは鬱陶しいほど魚の多い、とっても濃厚な海なのだ・・・
Edit : Norio Murakami
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2024年2月20日(火)第ニ話
地球の営みを感じずには居られない満点の星空の下のビーチへ貴方をお連れします。
マナに抱かれて、という映画のお陰でマナという言葉もかなり知られるようになった。
マナという言葉は、あらゆるところに内在している目に見えない、スピリチュアルなパワーのことを指す。
日本で言う、気とか、ヨガでいうウラナとか、その辺りのニュアンスに近いのかも知れない。
僕に、ハワイのことを色々と教えたくれた、カイホさんの話だと、着るものや、使っている道具、車にまで、その人のマナが宿るのだそうだ。
日本でも、魂の籠もった作品、などと表現するけれども、同じような発想かもしれない。
ハワイの人はマナが混同するので、誰かが着ていた服は、近親者以外に決して譲ったりはしなかったそうだ。
ハワイでは、ホッと言って暗闇の世界や、神の世界など、目に見えないものの存在を重視して、零や神や先祖などが暗躍するもう一つの世界を常に意識して暮らしてきた。
その世界を満たしているエネルギーのことを総称して、マナと言っているようだ。
意識や心の力なども含めて、目に見えないエネルギーをも意識して行動する。
というのは、物に頼りすぎている現代では、特に大事なことなのかも知れない。
カウアイ島の、南回りの道のどん突きの、その奥のでこぼこ道を更に進んで行くと、ナハイの大岩の手前まで、ドー・・・ン、と広がっている砂浜の美しいビーチに出る。
オリハレビーチだ。手前のでこぼこ道は、レンタカー進入禁止になって居るため、ローカルのサーファーぐらいしか来ない。
こんな、全く人気のないビーチでの、もっとも贅沢な過ごし方は、ビールやワインやサンドイッチなどを持って、夕日が落ちる前にたどり着き、ただひたすら夕陽が沈み空の色が変化し暗くなり、やがて星が出てきて、天の川が現れる。
北極星を中心に星たちがぐるぐると回転し、海面に星が映り込み、いつしか、東の空が少しずつ白んでくる。
という、地球と一緒に、宇宙の中を自転する自分を、感じることだと思う。
眠くなったら、砂の上に寝転び、寝ればいい、目が覚めたら、空が少し回転していることに気づくだろう。
月が出ている時には、一晩のうちに、月の大きさが少しだけ変化していることにも、驚くに違いない。
オリハレから帰る頃には、もしかしたら、本当、自分も宇宙人だったんだ!、という不思議な感動に包まれるかも知れない。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月21日(水)第三話
日本とハワイを結びつける2つの宝物をお届けします。
多種多様な人種が生存し、様々な海洋生物が生息する懐の深いハワイならではの宝物をご紹介します。
モロカイ島の山の中で虹と人間を岩に描いた「ペトログリフ」を見つけた。
ハワイを含むポリネシア人は、その昔、東南アジアから渡って来て、この「ペトログリフ」も一緒に渡って来たとする説がある。
しかし「ペトログリフ」は、ポリネシアの東側に集中していて、西側には殆どないことから、これが土着固有にものでない限り、東方から伝わって来たと考えたほうが納得がいく。
実は、このハワイ「ペトログリフ」は、ネイティブアメリカン(アメリカ合衆国の先住民)の「ペトログリフ」と良く似ていて、ハワイに「バターモチ」という先祖の伝説にあるように、彼らの口実伝説にも、海の向こうに「ハバイケ」なる場所があって、もしかしたらハワイの「ペトログリフ」はネイティブアメリカンから伝わったのでは、とする説もある。
ハワイ人は日本人と同じく、生まれた時にはお尻が青い。
つまり、ネイティブアメリカンや東洋人と同じ、モンゴロイド(黄色人種)なのだ。
彼らと話して居る時などは、言葉は違っても違和感はなく、近所の叔父さん、叔母さんと話している気がするのは、やはり昔の繋がりがあるからなのかも知れない。
ハワイでは何処のスーパーでも、ハワイ風、刺し身”ホキ”がごく普通に売られている。
ちょっとビールを飲みたい時など、僕は迷わず、ホキを買う。「ホキ」には、マグロ、エビ、貝など色々な種類が有るけれどもどれも、醤油や海藻、玉ねぎ、チリなどで和えた具に、ラー油を少し加えたシンプルなものだ。
アクアポキニックス(養殖魚)と、呼ばれる混ぜただけで出来上がるようなインスタント物も出ている。
僕は、お刺身に、何か混ぜたりするのは許せないタイプだけれどポキだけは海藻の香りに、シャリシャリした歯ごたえ、そして刺し身の食感が妙にマッチして、(https://macaro-ni.jp/58018#heading-2713974)
あぁ・・・海を食べてる・・!
という感じがして、とっても良い。
ワイキキのホテルで、スーパーで買ったポキとビールのディナーというのは、ちょっと地味かもしれないけれども、一度ぐらいは味わっても見てもらいたい。
ビールは、コナの地ビール「パシフィックエール(オーストラリアのクラフトビール)」で・・・。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月22日(木)第四話
天と大地が恵んだハワイの癒やしへをお届けします。
フラがフラダンスと呼ばれるように、ロミロミもロミロミマッサージと呼ばれることが多い。
しかし伝統的なロミロミは、単なるマッサージに留まるものではなく、心と肉体の調和を図るために触診、呼吸法、養生法、ハーブ、カウンセリング法など心身両面からあらゆる方法を使ってバランスを整えていく総合的な療法なのだ。
僕にハワイのことを色々教えてくれたカイホさんは、ロミロミで病気の人々を治療している専門でもあり、僕も何度か教えてもらったこともある。
先ず初めに患者の足の長さを比べて、バランスを見る。
大抵は長さが違っているので、内蔵を指で触って、あるべき位置に動かし、整えると不思議なことに足の長さは同じに改善される。
そこから、優しく話を聞きながら、患者の症状に合わせて全身を調整していく。
「ほら、お腹のこの辺が黄色いだろ」とか「ここに水が溢れ出てきてるよ」とか説明されるのだけれども、僕には色の変化も見えないし、水分の動きも見えない。
多分、目には見えない何かを感じ取って技を施して居るのだと思う。
カウンセリングを聞いていると「君の中の男性、性が、弱くなっているから、こういう症状が出ているんだよ」とか「感情の起伏の激しさだね」なんて言ったりする。
また、特別な木の葉を体に当てたり、施術後に薬草や海藻などを調合して当てたりもするなど、それはマッサージなんて呼べるものではないのだ。
「僕が治してるのではなく、あれが治しているんだよ」と天を指さして云う。
本当のハワイのロミロミは、おそるべしなのだ。
カウアイ島の、あるコンドミニアムに滞在していた時に、部屋の真ん中に大きな「ノニ」の木が一本あった。
「ノニ」の木というのは、万病に効くという、あの「ノニ・ジュース」の「ノニ」だ。
ベランダで読書をしたり、ギターを弾いたり、ビールを飲んだりする時、何気なく眺めていると色んな鳥たちが、かわるがわるやって来ては、日増しに熟して色が変わった行く「ノニ」の実をついばんだり、枝で休憩したりして、また去っていく。
多分、鳥達は「ノニ」が体に良いとは知らずに食べて、栄養源分として、クスリとして、体に取り込んで居るのだろう。
妻が体長を崩したので、眼の前に生えている木から落ちたばかりの「ノニ」実を、一個拾ってきて与えた。
体長を取り戻した。
何の、変哲もない大地から生え出て鳥や人間の前に、サァ・・どうぞ、と実をつけてくれる「ノニ」しかもそれは、クスリとなる成分などをしっかりと持ち合わせて、黙って我々の周りに用意されているのである。
大地の恵みに生かされてている自分と、植物の役割について色々と考えさせてくれる「ノニ」の木だった。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月23日(金)最終話
ハワイに秘境にしっとりと息づく、神秘の声をお届けします。
モロカイ島の東の外れに「ハラワ」という渓谷がある。
7世紀頃、フレンチポリネシアのマルケサスから古代ポリネシア人達がヨットに乗って、はるばるハワイに渡って来て、最初に住み着いたのがこの地である。と、言われている。
渓谷から遠くから眺めると、奥の山に滝が見える。
渡ってきた人々は、この滝の水が、海に至るまでの流れ沿いに住み、その恵みを受けて生活していたに違いない。
初めての場所でもあり、人影も無い秘境なので、現地の人にガイドしてもらい「ハラワの渓谷」に足を踏み入れた。
何故、不思議な感覚、圧倒的な力強さを感じる。そうだ、周りの植物達が、全てデカイのだ。
小さくなった自分が、深い森に迷い込んでしまったような感覚だ。
どでかい葉を持つ、草生植物、巨大な野生のマンゴウの木、ソフトボール程もある巨大な実をたわわにつけた野生のノニの木、様々な植物の実が、大地に落ちて豊かな香りが、渓谷中に漂っている。
その栄養は、大地に吸収され循環しているのだ。
ここはすごいパワーに満たされた渓谷かも知れない。
そんな事を考えて歩いていたら、ガイド「エディ田中さん」が語り始めた。
僕は20年前、オアフからモロカイに引っ越してきた。
越してくる前、住むところを探して、一人でモロカイに来た。
そして、この「ハラワの谷」に入り込んだ時、不気味なハワイ語の笑い声に、長い間付き纏われた。
怖くて、ブルブル震えながらも、谷のスピリットが何か言っているのだと思い「モロカイに越してきていいですか?。駄目ですか?」と、「訪ねてみた」。
するとその不気味な笑い声が、急に明るい笑い声に変わった。
多分「よろしい」という意味だと思い、後日、妻と娘を連れて、再び谷にやって来た。
と、・・またしても、同じ不気味な笑い声!
妻は恐れ慄き、娘は泣き出した。
僕は、同じ質問をした、すると又その不気味な笑い声は、明るいものに変わった。
それで、越してきても宜しい!というサインだと確信し移住してきたんです。
「ハラワ」に居ると、同じハワイで、観光客がワイキキショッピングしている光景が、非現実の世界の光景のような気がしてくる。
来週は、作家・原田マハの「風船のマハ」です。
Edit : Norio Murakami
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この道をどこまでも行くんだ
http://budoukyo.exblog.jp/30804808/
2024-02-12T08:54:00+09:00
2024-02-17T09:32:54+09:00
2024-02-13T10:22:17+09:00
budoukyo
旅の物語
作家:椎名 誠
2024年2月12日(月)第一話
今週は椎名誠の「この道をどこまでも行くんだ」を送ります。
椎名誠は1944年東京生まれ、千葉市で育つ、10歳から壁新聞の編集長を努め11歳の時、スエンヘビンの短編作品「彷徨える湖」に堪能を覚え世界中を旅し、写真を撮り、映画を作り79歳の今も文章を発表している。
「この道をどこまでも行くんだ」は、南米大陸からアジア、シベリアまで、その土地、その土地で出会った人や動物の営みを綴った一冊である。
今回では「捕る」の章から「アマゾンのデカナマズ」
アマゾン川の河口は広い、幅が広いということである。
対岸から対岸まで400キロ程もあり、その真中にマラキョウ島という大きな島がある。
アマゾン川は、その島の両側を囲うように流れているから、その島は、日本風に言うと、川中島ということになる。
しかし、行ってみると、単なる島ではなく、九州ぐらいの大きさだ。
この中洲には筑穂川ぐらいの川が流れていて、なんだか分けが分からなくなる。
ひとが、数ヶ所に固まって住んでいるだけだ。
アマゾンの河口で、一番大きな港湾都市、ベレンは何時、行っても大勢の人々が、まるで滅茶苦茶に交差する人間達のカオスのような様相でごった返している。
この辺りは、アマゾン川が海の中を進む河として、長さ500キロ程の凄まじいスケールで大西洋に流れ続けているという。
従って、海水、淡水、汽水、の領域がごっちゃになって、おびただしい種類の魚介類が、毎日水揚げされ、港の街は、海や河や魚がサンバのリズムと共に毎日賑わい、浮かれているようだ。
その日は、キリッチョというアマゾンの大ナマズが水揚げされてところで、一匹が100キロ以上ある。
口は大きいものだと、80センチ位は軽くある。
だから人食いナマズとも言われて居るが、味は美味く、この日は11匹も水揚げされたが、更に何時もの賑わいが加速された。
港湾市場には漁師の他に、魚介類の荷受人が、魚の卸売業の中を取り持つ、何でも運び屋、のような仕事の人が沢山いた。
もう30年もこういう仕事をしている、という人は、完全にガニ股化しており、長年重いものを頭で支えてきたからなのか、首が肩にめり込んでいる感じだ。
2人がかりで運ばれてきた大ナマズ・キリッチョは、200キロまで測れる大きな台秤の上で計量され、値段が付けられる。
その辺のシステムは日本の魚市場と変わらないが、扱われる魚が、みんな、とてつもなく巨大なのでその辺が、築地あたりとは様子が違う。
市場の中を歩いていて気がついたのは、畳4枚分ぐらいある大きなエイを見たときだった。
まだ、生きていて尻尾の横の方に、如何にも悪どい働きをする、固くて鋭い針が着いていて、扱いを知らない人が、時々刺されるという。
何しろ、巨大なエイだから、間が悪いと、人間が死ぬこともあるそうだ。
キリッチョは、そこからアマゾン各地の、魚類専門店やレストランに運ばれて行く、
どこの国でもそうなのだろうが、こうしたところには、市場で働く人や観光客などを相手にした大衆料理店が幾つもあり、その内の一つで水揚げされたばかりと思しきナマズ料理を食べた。
巨大なナマズは白身の部分が多く、それを軽く煮込んだスープも油で剥奪した層が出来ている。
ナイフやフォークで身を切り取り、唐辛子を主体にした、すさましく辛い調味料と、レモンやライムをどっさり掛けて食べる。
これが、地元の安酒にぴったりで、アマゾンの喧騒もちょうど良いBGM代わりになる。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月13日(火)第二話
「捕る」の章よりメコン川の「ゾンザイ漁」
大きな大きなメコン川に竹が何本も建ててあり、その竹と竹の間に小さな小屋がある。
その小屋の役割とは?
インドシナ半島の、ほぼ真ん中を貫くメコン川はチベットから、中国の雲南省辺りを通過して、ラオス、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムと幾つもの国を経て南シナ海に注ぐ。
日本列島よりも遥かに長い、この川の河口は対岸が見えないくらい広大で、船で下ってくると、何処までがメコン川で、何処からが海なのか、分からない。
源流から河口まで、おびただしい種類の魚介類が生息しているが、汽水域が広いので、その動物層の生息水域も明確ではない。
地元の人に聞いても、100キロとか1000キロなど、出任せと思えるような答えが帰ってくる。
満潮も、引き潮もあるから、どっちにしても、正確に測ることは出来ないのだろう。
河口付近には、長さ300メートルぐらいの幅に、太い竹竿が何十本も突き刺さっており、それにワイヤーを絡ませた、細い竹が全体を繋げている。
そういうものが、至るところにあり、共通しているのは、その真中辺に、2メートル4方ぐらいの小屋のようなものが作られていることだ。
この大掛かりな装置は、河口を出入りする魚を、網に掛けるゾンザイ漁といわれるもので、粗末な小屋には大抵、男が一人居て竹を管理している。
この横に広い竹柵の、至るところに袋網が仕掛けてあって、川と海が規則的に繰り返す、満潮と干潮を利用して、魚を捕っているのだ。
僕は、結構内陸にある、漁師の集落から船に乗って、このゾンザイ漁を見に行った。
船が近づいて行くと、小屋から男が出てきて、船が網を引き上げるのを手伝っていた。
網の中には、小魚を中心に、ウナギやカニ、エビなどの、雑多な獲物が、その日は一袋に、100キロぐらい入っていた。
幾つもあるそれらの獲物の袋を、船に船に運び込むと、一服する間もなく、船は本拠地へ帰っていく。
彼らが作業をしている間、僕は、その男の住んでいる空中の小屋の中を見せてもらったが、テレビも無線もなく、丸められた布と、炭のコンロが、片隅に転がっているだけだった。
網で生け捕った魚を、船が引き上げると、網管理の男のその日の仕事は終わりである。
その後、海水が河の内側に流れ込んでくると、翌日やって来た回収船には、海からの獲物である小魚類を、同じように積み込むのである。
見回したところ、この海上で一人で暮らしている男が、何処かへ行こうとしても、小舟一槽、継がれて居なかったが、大しけの時など、それがやって来くる前に、ボートで安全な場所に逃げ帰るということも出来ないわけだ。
男の聞いたら、2週間、その小屋に籠もって毎日同じ仕事をやり、3日程集落に帰って、食料などを仕込んだりして、またその小屋での生活に戻るのだという。
余程、孤独に耐えられる男でないと、務められない仕事なんだろうなぁ・・と、思った。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月14日(水)第三話
住民の章から「マサイ族」の暇つぶし
アフリカのマサイ族は、みんな槍を持っている。子供でも持っている。
彼らの仕事は遊牧が多いが、いわゆる防御、柵とか、電撃装置の囲いの全く無いところに家畜を放っているので、いつ野獣に襲われるか分からない。
そのためにも槍は必要だ。実際には家畜を襲う野獣は群れの背後からとか、夜間などに忍び寄ってくるので、実戦には、槍はそれほど役に立たなくなっているが、そうは言っても持っていないと不安?ということもあるのだろう。
マサイ族は長身も多いし、そういう状況だから目が殺気立っている。サバンナの細い通路を、マサイ族とすれ違うと、その殺気でこちらの精神が震える。
写真を撮られるのが特に嫌いで、神経質なところがある。
槍を向けられるので、普通の感覚では、先ず写真など撮れない。
それでもマサイは結構悪戯好きなところがある。
近くに像の群れが居たときだ。
因みに、像を怒らせると、それは別の意味でマサイ族よりも恐ろしい。
何かの不都合があって像に追われたらもう助からない。と、言われている。
何故なら、像の走るスピードは、その巨体に似合わず早いからだ。
木か何かに登れたとしても、本当に怒った像は、その木に体当りしてくる。
だから、像は絶対に怒らせないことだ。と、比較的おとなしいキキ族に教えてもらった。
マサイ族と像が、鉢合わせした時、像もマサイも悪戯に喧嘩するとは無いから、出会い頭になっても、お互いに知らんぷりをしている事が多い。
相互に刺激しあわなければ平和なのだ。
ところが、僕が写真を撮った時、子供を連れているマサイ族の5人は暇だった。
暇、といえば、家畜の放牧に行くマサイ族は、年がら年中暇なのであるが、で、・・近くいる象の群れに、石を投げては知らんぷりを決め込んでいる。
像は、何処から石が飛んできたか、像は分からない。
像と像どおし、色々話し合っているみたいだった。
結局、誰が投げたか判明しない。
で、少し経つと石が飛んできたのかを忘れてしまう。
マサイ族は、それを盗み見て、仲間内で”クスクス”笑うのだ。
暫くすると、また別のマサイが、像に石を投げる。同じことが繰り返される。
皆んなで、一斉に石を投げたら、利口な像はその5人組が攻撃者だとということが分かるから、その後は戦いになる。
さっき書いたように像が走ってきたら、マサイトといえども勝ち目はない。
キキ族に聞いたら、そんな時は、マサイの5人は夫々別方向に向かって逃げるらしい!
像は、5組に向かって攻撃するとまでの敵対感覚は無いから、悪戯マサイの勝ち!
と、いうことになるのだ・・。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月15日(木)第四話
「異次元」の章より「砂漠の塩の河」
暑かったこの夏、見上げると雲はきれいに無くなって、頭上には、ギラギラむき出しの太陽が怒っているように輝いている。
それを見て30年前に、タクラマカン砂漠を行く探検隊に加わり、一ヶ月間ほど毎日砂漠をクラクラしながら進んで行った頃のことを思い出した。
幾つかの物語にあるように、昔は何十頭ものラクダに、人間や荷物を乗せて、ルートを進んで行ったようだが、ちゃんとした準備と知識がないと、生きて帰れなかったんだろうなと、実感した。
我々の時代は、4輪駆動車の隊列で進んで行くが、はっきりとした道などは全く無い。
その当時でも、地図とコンパス、そして太陽の位置を頼りに進んで行くしか方法は無かった。
因みに現地に行ってわかったのだが、タクラマカンとはウイルグ語で、一度入ったら出られない、なんだという意味だという。
どうも、困った話だ。
もっと優しく、一度来たらば、またおいで!なんていう意味だと良いなぁ・・。
なんて、日本人隊員と話している。
車の中でも、前後、左右、上下に、ガタガタ揺れる中での会話で、乗っている我々の気分としては、洗濯機の中のパンツのようなものだ。
余り激しい揺れのところで、下手に喋っていると、本当に舌を噛みそうになる。
その遠征旅の最終目的地は、シルクロードの要所である「ローラン」だ。
今世紀で入るのは、外国人探検隊としては75年ぶりと聞いていたから、その先の情報が何も無い中をただ進んでいく。
僕が最初に、一番驚いたのは、進んで行く眼の前に真っ白な、氷の河らしきものが見えた時だった。
砂漠の中の氷の河なんて有り得ない!
誰も予想して居なかったし、そんな物があるわけがない?
だが、白く光る河は。正しく氷が張ったとしか表現のしようが無かった。
探検隊の車列はその手前で停まった。
気持ちを急かしながら、カメラを持って、その河に近づいていく。
足元の砂は厚く引き締まり、側の輪郭が固く固まっているように見えるのが不思議だった。
河は、くまなく氷が張り詰めている。
恐る恐るその河に手を入れると、想像したような冷たい氷などではなく、ズブッと両手を、その中に差し込む事が出来る。
次から次へと、予想もしない変化の中で、やっとその河の正体が分かった。
太陽に白く光る、氷と見えたものは、全部、塩だったのだ。
砂漠に流れる塩の河だ。
いや、その後、色々な自然現象や自然科学の本を読んで理解したが、塩は決して流れている訳ではなく、以前、河だったところが、じっくり塩に変わってしまっただけだったのだ。
淡水であっても、永く太陽の下にさらされていると、地球から塩分が湧き上がってきて、やがて淡水の河を全部、動かない塩の河にしてしまう。
ひとつまみ取って口に入れると、天日干しの塩田の塩、という訳だから、辛い中に、ちょっと甘みのある、うまい塩だった。
アジなんかを良く焼いて、塩をかけて食ったら、美味いだろうと思い、写真のフィルムのパトローネを入れる密閉できるケースに塊を2つ3つ入れて来たが
湿った国に返ってくると、ベタベタで使い物にならなかった!
昔の砂漠の旅人は、アジの塩焼きなど・・、
食わなかったのだろうなぁ・・。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月16日(金)最終話
最終話は「異次元」サンタマールの牛追い
カウボーイに成ってみたい。という椎名の夢が、ブラジルで実現。
ブラジルのサンタマールは、世界最大の湿原だ。
日本最大の湿原は尾瀬ヶ原だが、あんな可愛らしいスケールのものではなく、日本の本州ぐらいの、とてつもなく巨大な、しかも場所によっては、危険なところだ。
野生動物で頻繁に目にするのは、ワニで、湖沼があると、その中にはワニがウジャウジャ居ると思って良い。
低温動物の輪には、水の中と陸を上手く使い分け、陸に居る時は皆んな並んで、要するに日向ぼっこをしている。
幾つか流れている小さな川には、ピラニアが沢山いて、季節と場所によっては、渡るのが危険な場合がある。
このパンタナールで、僕は、本当のカウボーイの仕事をした。
ブラジルでは、カウボーイの仕事は、キョンという。
およそ500頭の牛を400キロほど離れてた牧場に運ぶという仕事で、僕も馬に乗り、テンガロンハットを被り、群れの左の後ろを、担当ポジションとして与えられた。
西部劇などで見ていて、何時か体験したいと憧れていたことが、遂に実現したのだが、しかし、あのカウボーイという仕事は、思っていた以上に厳しかった。
先ず、かなり大型の馬を自在に操らなければならない。
牛は、隙があると群れから逃げ出し、時には木立に入りこもうとするから、信頼といえども油断できないのだ。
僕は世界各国で馬に乗ってきたので、馬を御することは出来たが、牛はベテランだろうが、新参者のカウボーイだろうが、お構いなしに隙を伺って逃げようとする。
逃亡牛を見つけると、それを追って行って、逃げた牛の背後に周り、群れに戻すのを何度もやる。
2伯3日の旅だったが、僕がカウボーイの旅に憧れていたのは、映画などでよく見るように、夕方に成って焚き火を囲み、皆んなとその日のことを話しながら、ウイスキーなどを飲み、誰かがギターを弾く、なんていうことを、密かに楽しみにしていたからだ。
ところが、一日中、仕事として、牛を追っていると、その日の工程が終わった頃には、全身がガタガタになっており、馬から降りると、足はガニ股化し、普通に歩けるようになるまで、2,30分かかった。
もう焚き火をする余裕もなく、乾燥肉を混ぜたご飯を食べたら、みな寝てしまうのだった
翌日、リーダーから、今日はコールドで、一番危険な川を渡るので、そこで事故を起こさないように、注意しろ、という指示があった。
ピラニアが沢山いる川を、渡るのだ。
牛も、その事知っているのか、なかなか川に突進していかない
カウボーイ達は、ピストルを鳴らし、鞭で大地を叩き、牛たちを川へ追い込む。
ピラニアが多いときは、一番年老いた牛を殺して、そこにピラニアを集中させ、その隙に渡るという。
その日は、仔牛もずいぶん居たので、これも狙われやすい。
川に入ると、人間も下半身を河の中だから、こっちだって安全では無いのだ。
食いつかれる物もなく、全部、渡り切った時、それまでギコチナカッたカウボーイ仲間と夫々笑顔を交わしあえたのが嬉しかった。
Edit : Norio Murakami
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夜明けを待つ
http://budoukyo.exblog.jp/30790544/
2024-02-05T17:37:00+09:00
2024-02-10T10:37:15+09:00
2024-02-06T10:09:54+09:00
budoukyo
旅の物語
2024年2月5日(月)第一話
ノンフィクション作家・佐々涼子のエッセイ『夜明けを待つ』著書:「エンジェルフライト」、国際霊柩送還士で「開高健:ノンフィクション大賞」を受賞した、佐々涼子。
日本語教師を経て、フリーライターとして活動してきた彼女が訪れた幾つもの国。
今回は、そんな佐々が、旅に出られなかったコロナ禍での思い。
ここで、語られる言葉から、様々な景色が浮かび上がってくる。
コロナ禍で家に籠もっている内に、すっかり不眠に成ってしまった。
夜更けに鬱々と過ごしていると、国際線の機長をしている友人を思い出した。
連絡したら、今夜は休みで家にいるという。
旅の話を聞きたくて、ZOOMを繋いだ。
印象に残っているフライトの話を聞くと、ヨーロッパ便のウイーンからパリに向かうフライト。
「冬でねぇ」「雪の積もったアルプス山脈の上空を飛ぶんだ」
山の斜面に夕日が射して、一面オレンジ色になった。
「美しいんだよ」という。
私は、息を呑んで、言葉の余韻に酔いしれた。
「それから・・」、、
私が聞くと、彼が答える。
「ムンバイは印象深い・・スラム街をかすめて降りるんだ」
「すぐ隣には高層ビル群がある」
「そのコントラストが、まるで黒澤映画の天国と地獄だ!」
その言葉を聞いて、私はインドの上空を飛んでいた。
その空の下にも、きっとコロナに苦しんでいる人が居るのだろう。
街のすぐ上を飛ぶといえば、メキシコシティを思い出す。
赤や青や黄、など壁が原色で塗られた街の上空スレスレを下降し、街に吸い込まれるようにして着陸する。
その際、飛行機は山を避けるために旋回する。
すると機体が斜めに傾き、カラフルな街が眼下に見えるのだ。
街が煌めいて見えるのは空気が薄く、乾燥しているから・・
空気が澄んでいる冬に、星が一層輝いて見えるのと同じ理由だ。
日本に戻るための離陸は、よる機体が斜めに傾くと星を地面にこぼしたような、街明かりが見える。
ため息と共に彼の話を聞く。
タンガンを挟んだ北朝鮮の暗さ、港湾のナトリュウム灯で吹き込まれオレンジに光る台湾。
彼は言う。
「夏になると日本のあちこちで上がる花火を下に見ながらフライトをするんだ」
ニューヨークも良い、そこが世界の中心と言われるけど
「空から見ると手の平に収まる程の大きさなんだ」
みな、平和や幸せを願って居るんだろうけど、そこで色んな事が起きて居るんだと思って・・、
もし、神様が居るんなら、こうやって我々を見下ろして居るんのだろうか?
私は、そう、つぶやくと、
彼は、今は旅客制限があって、旅客機の客室の貨物を積んでいるが、お客さんを乗せたいでしょ・・と尋ねると
「それは、そうさ、人の色んな思いを載せる仕事だからね!」
と、彼は答えた。
そして、無理を言って、機長の挨拶を頼んだ。
私達はシアトル便に乗っている。
「機長です」
「長い洋上飛行を続けて来ましたが、左手にアメリカ大陸が見えて参りました」
客席から見えなくても操縦席からは見えるものがある。
コロナ禍の収束も、そうやって朝焼けとともに見えてきて欲しい。
行けない旅はどうしてこう美しいのだろう?
ようやく、眠くなってきた・・・・、
礼を言って、ZOOMを終えると・・
夜の静寂に雨の音が・・、戻ってきた。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月6日(火)第二話
フリーライターとして活動してきた佐々は、かつて日本語教師として、外遊外国人と接し彼らの祖国や、世界の様々な国を取材してきた。
コロナ禍で旅ができない2年の月日、今そんな状況から抜け出そうとしていた。
和室の天袋からスーツケースを取り出す。
すると溜まったホコリが落ちてきて、私は、”おっ”と、言いながら息を止めて顔をそらした。
冬の陽が当たって、そこだけチラチラする。
昔は、それを妖精さんの魔法の粉だと勘違いしていたものだ。
スーツケースを出すのは、実に2年ぶりである。
この明るいオレンジ色のスーツケースを連れて行ったのは、フランス、バングラデシ、インド、メキシコ、キュウバ、ペルー、スコットランド、中国、空港のターンテーブルに乗ると、黒っぽいケースが多い中、よく目立つ。
ぶつかって出来たキズや凹みで、自分だけのケースになっていき、益々愛おしくなっていく。
わたしは、2度ほど、ロストバゲージの憂き目に遭っている。
一度目はペルー、空港側の事情で飛行機に乗れず、荷物だけが先にクスコに飛んで行った。
空港に遅れて着いたら何処にも荷物がない。
2時間以上ウロウロ探したら、何故か空港内の売店にポツネンと置いてあったのを見つけた。
「何でやねん」
幸いには、荷物は無事で事なきを得た。
インドではそうは行かなかった。
お釈迦様が悟りを開いたという、ブッタガヤのプロペラ機の中は袈裟を着たお坊さんだらけ、そんな聖職者ばかりの中で、まさか荷物が無くなるなど考えられない。
が、イミグレーションで足止めを食っているあいだに誰かに持っていかれた。
航空会社が僅かなお金をくれた。
それで、洋服を買え、という。市場に行って服を選んだがこれが、ど派手なのである。
一番地味なのを買ったが、パンツは光沢のある金色、まるで歩く鯉のぼりだ!
7日目に連絡があり、鯉のぼりの格好で航空会社の小さな事務所に行くと、「お釈迦様のご加護です」と、芝居がかった表情で握手を求められて、紛失していたスーツケースを渡された。スーツケースの鍵はこじ空けられていたが、中に入っていたのは地味な服だったので何も盗られず、戻ってきた。
スコットランドでは現地の人と、ホタルの光を大合唱した。
本場のホタルの光はヤタラと陽気で、見知らぬ叔父さん、オバサンと肩を組んで何時の間にか一緒に踊っていた。
旅に出られず2年、だがそろそろ出発の時だ。
これから私は、日本にある難民施設に、泊りがけで取材に出かける。
期間は一ヶ月、日本国内には様々な事情で、日本に逃れてきた人が沢山いる。
その人達の目線で国を見てみようと思っている。
何故取材をするのか!
それはきっと私に想像力がなく、人の気持ちも分からないからだ!
だからこそ、人の中に入り、話に耳を傾ける。
彼らと一緒に空気を感じ、その表情を見つめ、そして少しだけ彼らの世界を・・・。
誰に合うだろう?何を知るだろう?
何を喜び、何を悲しむのか?
久しぶりにスーツケースのジッパーを開けて、空っぽな空間を覗いた瞬間、期待と不安で体がブルブルと震えるのを感じた。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月7日(水)第三話
佐々がある友人から聞いたある男の話、佐々はこう綴っている。
友人から聞いたこんな話が好きだ。
僕の友に、すごく不思議な人がいるんです。
僕は、余りスピーチュアルなことを信じないほうなんです。
この人は、ちょっと普通じゃないな、と
その人の名は「冨樫君」
友人のもと同僚で、彼の行く先々で不思議なことが起きる。
先ず、冨樫君はくじ運が良い。
何故か色々なものが当たる。
海外旅行も複数回当てているのだが、福引で当てたニューヨーク、フロリダ旅行の際には、電車の向かいに座っていた老婆が彼を見て手を合わせたそうだ。
冨樫くんはそんなに有り難い顔つきなんですか?
と私が聞くと、
さぁ、見える人には見えるのかも知れません。
僕には普通の良い人にしか見えないんのですが・・
と首を傾げた。
その時は冨樫くんも不思議に思ったらしい。
そこで彼は電車から降りる時、どうして手を合わせたんですか?
と聞いた。
「光が見えたんです」
と言われたのだ。
それっていわゆる「後光」というものだろうか?
彼は三人から、「過去げ」は僧侶だったと言われたそうだ。
二人には、チベットの僧侶だったと言われ、もう一人は、冨樫くんが像に乗っていて、後ろから大勢の人がついてくるビジョンが見えたという。
会社を辞めて世界旅行に出た話も、荒唐無稽だ。
1985年の、つくば万博のとき、15年後の自分に向けて、書いた手紙が2001年に届いた。
「2002年に世界旅行に行く」と書いた手紙だ。
これは行かなければと、彼は仕事を辞めて世界旅行に出発し、80日間歩いて台湾一周の旅に出る。
何故か、スポンサーが付き人づてに彼の旅行をテレビ中継した。
日毎に、彼の後ろに付く人が増え、その様子をマスコミがこう表現した。
「日本のフォレスト・ガンプ」
その後、冨樫くんは日本に戻ったが、今度は結婚して再び台湾に移住する。
当時二歳だった息子が、地球儀の紙風船で遊んでいて突然こんな事を言い始めた。
「ここへ行く」、「ここへ行く」
それは、ニュージーランドだった。
お父さんお仕事もないし無理だよ!と笑った。
息子は、こう言った。
「大丈夫だよ」「リスさんが助けてくれるから」
「リスが助けてくれるなんて、おとぎ話だよ」と笑った。
だが、冨樫くんは考えた。
例え少しに時間でも、ニュージーランドに行けるなら気分転換になっていいじゃないか!
そこで彼ら家族は、何のあてもなく、彼の地に移り住むのである。
ところが、更に自体は転がってゆく。
行った先でイベントに参加すると、イベントスペースのオーナーが彼らのことを気に入り、そこでイベントをしてみないか?
と、言ってくれた。
ビザも申請して見るというのだ。
その声をかけてくれた人の名が、なんと「スーリーさん」
何と、ひっくり返すと「リスさん」である。
そして、何と周囲では誰も取れなかった「永住権」まで取れてしまったという。
冨樫くんは、今でもオークランドに住んでいる。
人に取材をしていると、時折、信じられないような話を聞く。
小説に書いたら、出来過ぎですぐに「ボツ」だろう!
生まれ変わりはあるのだろうか?
何れにしても我々は運ばれている。
何処に運ばれていくのか、凡人には知る由もない!
Edit : Norio Murakami
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2024年2月8日(木)第四話
旧荘四国、フランスの香りが残るベトナムハノイの市街地には、洋服を山のように積んだ洋品店や、昔ながらの漢方薬局、カフェなどが立ち並ぶ。
その前をベトナム式の麦わら帽を被った行商が行き過ぎる。
路地には小鳥を入れた、竹製の鳥かごが吊るされ、子供たちが歓声を上げて走抜けて行く。
2018年、私は、技能実習生の取材に訪れた。
私は、ハノイの街角で小柄な女性の背中を追いかけて歩いていた。
黒髪をボツンと切りそろえたボブに赤い口紅、湯上がりに着るようなラフなワンピースを着て外股で歩いて行く。
洗練されているとは言い難い歩きっぷりだが、斜めに掛けているのは黒いシャネルのハンドバッグ、彼女は技能実習生として来日して、縫製の仕事をし、ベトナムに戻ると、今度は同胞の送り出し機関で働き始め成功した。
シャネルは勲章だ!
この女性にインタビューをしたが、ガードが固く差し障りのない言葉しか、戻って来ない。
だが30歳を越えてから来日し、語学力を付けて返って来た。
その度胸と努力を聞くだけでも、彼女の逞しさが分かる。
夜になると、外国人ばかりのバーの特等席に私を招いてくれた。
バルコニーから街を見下ろす。
バイクで走る若者達や、子供向けの光るオモチャ、屋台の明かりが見えて、私は、なぜか沢田研二の歌うトキオの歌詞を思い出していた。
みんなが、未来に希望を持った、あの頃の雰囲気をこの街はまとっている。
「日本には何度でも実習に行きたい」「いくらでも残業できる」と、彼女は言った。
次の日は、ハノイ郊外の日本語学校に見学に行き、若いベトナム人教師たちと昼にホーを食べに行くこととした。
ヘルメットを渡され、原付バイクの後ろに乗れという。細い開襟シャツの後ろの遠慮がちに手を回すと、「しっかり掴まって」と注意された。
埃っぽい風をまともに浴びながら、田舎道を疾走した。
風に塗れて、前から彼女の声が聞こえた。
「バイクで何が一番楽しいと思う」
しばらくして、また彼女は言う。
「恋人と一緒に乗る時」
耳がくすぐったくなった。
彼女は快活に笑った。
彼女も、もと実習生、ベトナムでは女性が強く、気持ちが良い程の野心を持っている。
彼女たちには敵わない。
そして最後の夜は、日本人女性を訪ねた。
私と同じ世代、送り出し機関に勤めている。
日本の行く末を外から眺めて見たくてね!、という。
娘を夫に託し離婚、単身ハノイに渡り働いている。
すっかり意気投合して、私が私生活の悩みを漏らすと、こう言った。
「私ねぇ、離婚した時こう思ったの・・、ヨーシ10年後、今よりも絶対に幸せになっていよう」、と。
そして、涼し気な笑顔を湛えてこう言った。
「ちゃん・・と、そうなったわ」
女性たちが、余りに魅力的だったので私はハノイが好きになった。
最近、その人は、日本に戻る決意をした。
日本が、安い労働力だと思っているなら、私はベトナムからの実習生は、あと数年で来なくなると思うの!
彼女は、中国、韓国からの実習生が来なくなった歴史を知っている。
日本は・・、どうなっやちゃうんだろう?
彼女の言葉には、私は深く頷いた。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月9日(金)最終話
ノンフィクション作家:佐々涼子のエッセイ「夜明けを待つ」最終話
日本語教師として、フリーライターとして活動してきた佐々涼子は、移民、難民の生活そして、彼らの思いを理解するために、彼らの故郷を取材してきた。
ベトナムでは、ホウホウボクに赤い花が咲くと故郷を思い出す・・、という。
そして、夏休みの始まりを告げる花だ。
4年前の、この花の咲く時期、私は日本に来る前の、技能実習の取材に行った。
一ヶ月後には、食品加工の仕事につくという女性は、まだ二十歳で、現地の日本語学校の校長と私と彼女で、故郷の実家に向かったのだ。
大都市ホーチミンから車で40分程、長閑な田園地帯にその家はあった。
青々とした田んぼが広がり、稲の匂いがする。
この田んぼの中に、時折立っているのがヤシの木で、それがベトナムらしさを醸し出していた。
何時もは、寮暮らしをしている彼女を迎えたのは、お母さん、オバサン、そしてお婆さんだ。
彼女には父親はなく、お母さんが一家を支えてきた。
家の中には土間があり、そこに牛が2頭、犬とニワトリも飼っている。
土間に寝転ぶ犬に「ちょっとどいて」と言いながら、お母さんが焼いた手羽先を持ってきてくれる。
スープや春巻き、椰子の実のジュースにライチだ。
美しいクロスを敷いたテーブルに並べられている。
「さ~食べてください」「どうぞ」
なんて懐かしい、夏休みに行った父の田舎がこんな感じだった。
茅葺き屋根に五右衛門風呂、カマドは薪が燃料で夕方になると子供たちが当番をする。
風通しが良い土間には、近所の人や親戚の人が、スイカを置いていったり、集まって世間話をしたものだ。
私は、元、日本語学校の教師で、この十年ほど日本語教育の現場を見てきた。
実習生といえば、中国や韓国からの人が多かったが、やがてベトナム人が主流になった。
ベトナムの人も豊かになったら、来なくななるのでは無いだろうか?
すると校長は「まだまだ貧富の差は大きい、当分は日本に来るでしょう」
と、言ってこの家を紹介してくれたのだ。
私は昭和40年代の生まれだが、小学生当時の田舎の風景からバブルの絶頂期までは、あっという間だった。
ホーチミンの賑わいと、この家を見て、ベトナムから実習生がこなくなる日も近いと確信した。
私は、家の外を散歩することにした。
お母さんが貸してくれたベトナム傘を目深に被って外に出る。
日差しが、眩しい・・。
ヤシの木畑を横切ると、大きな木の下に木陰があって、テーブルとイスが置いてあった。
そこに、お婆さんが座っていて、私を見つけると手招きをして、グラスにお茶を注いだ。
琥珀色のお茶を飲みながら、語りかけたくなる。
私達は、経済的反映と引き換えに、美しい故郷や、家族との繋がりを失ってしまいました。
失ったものは、大きかったです。
私がお茶を飲み干すと彼女は「分かっている」というふうに何度か頷くと、またポットを手に取り、お茶を注ごうとする。
孫娘を預けようとする国から来た人へ、もてなしだ「それでも・・」と彼女は言った。
ポットから注がれるお茶が、音をたてる。
「それでも・・孫を宜しく」と、言われた気がした。
私は、温いお茶に口をつけながら・・、
果たして日本は、彼女の孫娘に富と幸福を持たせて返すことが出来るだろうかと・・、考えていた。
Edit : Norio Murakami
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生命海流
http://budoukyo.exblog.jp/30766957/
2024-01-29T15:14:00+09:00
2024-02-03T08:16:27+09:00
2024-01-30T09:59:57+09:00
budoukyo
旅の物語
生物学者 福岡伸一 紀行エッセイ
2024年1月29日(月)第一話
作家が描く世界への旅「生命海流 GALAPAGOS」生命学者:福岡伸一の「紀行エッセイ」
昆虫を追って野山を追った少年は、生命の不思議に心を奪われやがて生物学者となった。
そして生命の神秘を伝えるために、ナチュラリストとして魅力的な文章を書き続けている。
福岡伸一の夢は、南太平洋に浮かぶ「ガラパゴス諸島」をチャールズダーウィンの航路と同じように旅することだった。
ガラパゴスに行きたい。
これは、ナチュラリストとして長年の夢だった。
プロの研究科もアマチュア・バードウォッチャーも7歳の鳥好き少年も、皆んなナチュラリストとであるという点では皆同じ。
そして彼らは等しく願う。
生涯、一度でいいから、絶海の果てに位置する、ガラパゴス諸島に行って、溶岩と巨石に覆われ、絶えず波に洗われる崖に生息し独自の進化を遂げた奇跡的な生物を、実際に、この目で見てみたいと・・、ずっと昔から、そう願ってきた。
とはいえ、私の夢は、もう少し手が込んでいた。
ただ観光客としてガラパゴスを見に行くのではない。
今を去ること、二〇〇年近く前の秋、はるかな航海の果てに、この群島にたどり着き、イーグル号と同じ経路を辿って島が見たかった。
イーグル号には、かのチャールズ・ダーウィンが乗っていた。
後に、進化論を打ち立てて、生命誌に革命をもたらした人物、しかし、そんな事は出来るはずがない。
イーグル号の正式名称は「ハ・マデステーズ・シップビーグ」つまり女王陛下の船だった。
全長、27.5メートル、排水量242トン、実戦が可能な大砲6モンを搭載、英国尖鋭の軍人74名の船員が乗船する本格的な軍艦だった。
当然、装備も資材も豊富に積まれていた。
だからこそ、自由自在な航路を取れたのだ。
当時、ダーウィンは、まだ22歳、船長ヒッツロイのコネでたまたま随行を許された民間の客人だった。
生物学に興味を持っていたとはいえ、後になって種の起源として説述する進化論の構想は何一つとして彼の心のなかに準備されてはいなかった。
一口に、ガラパゴスと言っても、そこは大小様々な島や岩礁が散在する群であった。
名前の付いている島は、全部で123で、主要な島だけで13あると言われておりそれが、およそ関東地方ぐらいの広い範囲に分布している。
ダーウィンの乗ったビーグル号は、18354年9月15日にガラパゴス海域東端のサンクリストバル島に到着した。
その後、およそ1ケ月かけて数少ない水面のある島「クロレアナ島」6つの火山を要するガラパゴス最大の島「イサベラ島」と、今も火山活動が激しい島「セルナンデア島」間の狭い海峡を潜り抜けて、赤道を超え、サンピアナ島などに寄港し、調査と測量を行い、1835年10月20日、次の調査地であるタヒチ島に向けて太平洋を西に進んだ。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月30日(火)第二話
作家が描く世界への旅、生命学者:福岡伸一の「紀行エッセイ」「生命海流 GALAPAGOS」
第二話は「ガラパゴス」に行きたい。
生物学者、福岡伸一は、200年前のダーウィンの航海ををなぞりながら、独自に進化した奇妙な生き物を実際にこの目で見てみたいと思っていた。
ガラパゴスには3つの謎があるという。
1つ目の謎:奇妙な生き物達は、この絶海の孤島で進化してきた。だがどうやって島にたどり着いたのだろう?
ビーグル号は、タヒチ、タスマニア、ココス、モーリシャスなど、今から見ると高級リゾート巡りをしているかのような航路をたどって、五年に渡る世界航海を行った。
少なくてもガラパゴス諸島の旅に関してだけでも、チャールズダーウィンと同じ航路を辿って彼が見たであろう光景を、彼が見たはずの順番で訪れてみたい。
一体、ガラパゴスの何が、彼の目を見開かせ、彼の想像力を掻き立てたのだろう。
それを追体験したかった。
これが私の贅沢な夢だった。
ガラパゴスには大きな謎が3つある。
それは現在でもなお解決されていない!
その謎に少しでも近づきたいというのが、今回のこの旅に於ける私の切なる願いだった。
しばしば、ガラパゴス化などと言われるように、ガラパゴス諸島は隔絶された環境で独自の進化を遂げた結果、ある種の袋小路に入り込み、世界から取り残されてしまった場所、というような揶揄的な言い方で言われることが多い。
日本の「ガラケイ」という言い方がその好例だ。
「ガラケイ」つまり、ガラパゴス携帯電話は作り込みで多彩な機能を搭載し、特別な方式でインターネットにも接続できるようになったが、何れも日本固有の仕様だったため、世界標準のスマートフォンの上陸とともに駆逐されてしまった。
2つ折り、のガラケイを操作しているのは、ごく僅かな人達である。
しかし、本当の「ガラパゴス諸島」は、世界から取り残されてしまった場所ではない。
ガラパゴス諸島は、むしろ世界最先端の進化の前線にある。ガラパゴス諸島は決して古い場所ではない。むしろ、地球史的に見ると極めて若い島々だ。
アジア、アフリカ、北南米などの大陸に比べて、ずっと後になって、海底火山の隆起によって作られた、ごく新しい環境なのである。
大陸は、何億年も前から成立していたが、ガラパゴス諸島は古い島で誕生から数百万年、新しい島では数十万年しか経過していない。
そこに、何処からか、奇跡的に限られた生物がたどり着き、何とか生態的な地位を切り開き、生息を開始した。
進化は始まったばかりであり、これからこそが本番なのである。
それにしても、彼ら、彼女らは、何処からやって来たのだろう?
一番近い、南米の大陸からでも、海上千キロも離れているのだ。
翼を持った鳥達は、たどり着けたかも知れないが、泳げないリクガメ達はどうやってやって来たのか?
仮に流木に掴まってやって来た、稀なケースがあったとしても、この島で繁殖するには、少なくても一対のツガイが必要となる。
そして何よりも、出来たての火山島には植物も土壌も、そして水さえも殆ど無かったはずなのだ。
しかも、彼ら、彼女らは、如何にして独自の進化を遂げることが出来たのだろう?
Edit : Norio Murakami
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2024年1月31日(水)第三話
ガラパゴス諸島は1535年にスペインの伝道師ベルランガーが漂着し1835年にはダーウィンがビーグル号で訪れた。
そこには、奇跡のように独自に進化を遂げた生き物が生息していた。
巨大な象亀、オオトカゲのイグアナ、小さな鳥、ヒンチ、福岡伸一の見たい自然がそこにある。
大陸に留まった亀は大きくならず、ガラパゴスゾウガメだけが、何故こんなに大き聞く成れたのだろう?
不思議なことに、巨大な象亀が生息している場所が、世界にはもう一箇所ある。
それは、インド洋のセーシェル群島であり、アルダブラゾウガメが生息する。
ガラパゴスゾウガメとアルダブラゾウガメとの間に生物学的な類縁関係はない。
そもそも2つの島々は、地理的に離れすぎている。
しかしこの2種のゾウガメは、互いに生態と形態が極めて似ている。
草食で甲羅が1メートルを超すまでは、ゆっくり成長し極めて長寿である。
200歳を超える個体があることが分かっている。
アルダブラゾウガメの祖先もまた、恐らくは小型の、恐らくはアフリカ大陸原産の陸亀がこの絶海の孤島に漂着したものだろう。
つまり、2種のゾウガメは、その進化論的な道筋も近似していると言える。
しかし、その道筋のうち、何が小さなリグガメをして、これ程までに大きなゾウガメに変化させると云うのだろう?
ガラパゴス生物達の謎を解くためには、数百万年に渡る時間旅行が必要となる。
もし、ガラパゴス旅が実現し、ビーグル号の航路を辿ることが出来るとしたら、私は奇妙な生物たちを見つめながら、この時間旅行を実現してみたいと思ったのだった。
2つ目の謎は、人類学史上の謎である。
ガラパゴス諸島が発見されたのは1535年、スペインから南米インカに派遣された伝道師フレイトマスベルランガの船が偶然漂着したのが、後にガラパゴスと命名された諸島であったことによる。
ベルランガの船は、嵐によって遭難したのではない。無風によって遭難したのだ。
ベルランガが法皇に当ててしたためた1535年、4月26日付の手紙が残されている。
2月23日パナマを出帆、最初の7日間は風に恵まれて順調に帆走し大陸に沿って南下いたしましたが、それに続く6日間は全くの無風状態で、我々の船は海流の捉えられ流されて、3月10日に見知らぬ島を発見しました。
島には、アシカ、ゾウガメ、オオトカゲのイグアナ、鳥などが住み、それらは逃げることを知らないので、素手で捉えることさえ出来るのです。
島々は、神が巌を知らせ給うた如く、大きな石に満ち、大地には草を育てる力すらありません。
手紙にはそう記されていた。
赤道直下に位置するガラパゴス諸島の正確な印がここにある。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月1日(木)第四話
南太平洋に浮かぶガラパゴス諸島は何時、誰が発見したのか?
筏の船、コンチキ号で有名な、ノルウェーの海洋冒険家トールヘイウェルダールは1953年にガラパゴスの島々を調査したが、今も人類学史上の謎は多く残っている。
福岡伸一は、少年時代に読んだ数々の漂流記を思い出しながらガラパゴスへの時間旅行を続ける。
スペイン人の伝道師ベルランガが、偶然ガラパゴスに漂着したのは、汎ゆる歴史的事実と同様、白人による世界の発見ということに過ぎない。
それ以前にも、南米のインカ文明の人々や或いは太平洋を住み家としていた海洋民族がこの島の存在を知っていた可能性は十分にある。
そのことを示す、何らかの文化人類学的、民俗学な証拠は無いのだろうか?
つまり、人間の活動の遺跡を残す遺跡や遺物の存在である。
コンチキ号による海洋冒険家として名を馳せた、トールヘイエルダールによるガラパゴス調査の記録が僅かにある程度だ。
1953年ヘイエルダールは、ガラパゴス諸島のうち、フロイアナ島のブラックビーチ、サンタクルロス島のクジラの湾、サンピアゴ島のジェームズ湾などで多数の土器類を発見し、これがコロンブス以前の時代のもの、つまりインカ帝国時代のものである可能性を考えた。
しかし、当時の年代測定技術は今ほど程度の高いものではなく、確定的な結論は得られなかった。
私が少年だった頃、コンチキ号漂流記はヒユールベルクの冒険小説、15少年漂流記やアーネストシャクルトンの壮絶な南極漂流記、エンディアランス号漂流記と並んで大代ワクワク漂流記と並んで必読書だった。
ところでもう一つのミステリーは、ガラパゴス空白の三百年である。
ベルランガーが、たまたまガラパゴスに漂着し、その記録を1535年に文書に残したあと、凡そ300年に渡ってガラパゴスは世界史の中では、ずっと忘れ去られていた。
大半を不毛な溶岩に覆われ、水場も殆どなく、巨大なゾウガメと奇怪なイグアナが群生するこの不思議な島々は、地政学的には長らく放置されていた。
風説によれば、この間、ヨーロッパと南米を航路を狙う海賊たちのアジトになったり、捕鯨船の停留場所になったりしたという。
もしそれが本当なら、金や銀を積んだ船を襲った海賊達が奪った財宝がガラパゴスの何処か、地中の壺の中に隠されているかも知れないのだ。
18世紀になって、南米諸地域が、総主国であるスペインやポルトガルの支配から脱し、独立を目指すようになって初めて民族自決と領土的な自覚が現れてきた。
インカ帝国に文化的な源流を持つエクアドルが、独立を果たしたのが1930年、そのすぐあとエクアドルはガラパゴス諸島の領有権を宣言した。
1832年のことだった。
Edit : Norio Murakami
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2024年2月2日(金)最終話
若きチャールスダーウィンが出会った手つかずの自然、南太平洋に浮かぶ絶海の孤島の自然に触れたい。
時空を超える島ガラパゴス、生物学者として福岡伸一が、思い続けた夢は叶うのか?
英国の軍艦ビーグル号は、既に英国を出港し南米への航路を進んでいた。
1835年、もしダーウィンを乗せたビーグル号が、ガラパゴス諸島に到着した時、まだエクアドルが領有権を主張していなかったとしたら、英国艦隊は空かさずユニオンジャックの旗を海岸に打ち立てたであろう。
しかし寸前のところでエクアドルが領有権を主張し、エクアドル側から移住も少しずつ進み村が出来、居住の既成事実が存在したお陰で、ガラパゴス諸島は辛くも欧米列強の手に落ちることを免れたのである。
もし私がガラパゴスへ行くことが出来たなら是非、空白の300年を埋める手がかりを探してみたい。
そして、なぜエクアドルは、ビーグル号の到ガラパゴスを保全するという英断を下すことが出来たのか?
その密かな歴史を紐解いてみたいと思います。
1835年の秋、ダーウィンがガラパゴスを旅した時、26歳だった彼の頭の中には、まだ進化論の萌芽的アイデアさえ準備されていなかった。
彼の著作、ビーグル号航海記に於けるガラパゴスの記録は僅か一節、10ページ程の記述で、島で見た動植物の観察記録と島の地質学的な特徴を書き留めているに過ぎない。
ダーウィンの種の喜劇、いわゆる進化論が書かれることになるのは、ここから20年後のことである。
ガラパゴスで進化論の着想を得た、というのは神話に過ぎない。
1835年秋、ダーウィンは確かに、このガラパゴス島に到達し、ここに驚くべき生命の姿を目の当たりにした。
それは、手つかずの自然、といって良いものだったし、生命の実装と言って良いものだったはずだ。
私は、それをシュヒスと呼びたい、ギリシャ語で言うところのシュヒスである。
守秘すの対義語は論理、言葉、思想を意味するところのロボティである。
ダーウィンが目にしたのはシュヒスだったことは間違いない。
それがロボスカした結果が進化論である。
ガラパゴスに行きたい!
夢だが、しかし思い続けていればいつか叶うものだ!
例え、それは当初予総していたものと違う形のものでも
まるで、帆船が風を待つように
或いは、潮が日の満ちるのを待つように
希望を持ってその時をじっと臨んでいれば、何時か夢は叶うんだ!
アレキサンドルジュバの波乱万丈の歴史小説「モンテ・クリスト伯の最後」だってこう結ばれているではないか!
待て、近して希望せよ・・と
そして、又と無いチャンスが巡って来ることになった!
Edit : Norio Murakami
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湾岸の富士山
http://budoukyo.exblog.jp/30627174/
2024-01-24T15:54:00+09:00
2024-03-10T10:44:21+09:00
2024-01-05T15:54:18+09:00
budoukyo
国内風景
三浦湾岸からの富士山です 距離は約100kmです
相模湾の富士山スポットから撮影した画像です
眺望の良い時に撮影をしています
--------------------------------------------------------------------------------------------------------今朝の富士山撮影:三浦市・諸磯2024年3月10日 8:40暫く明快な富士山が見られませんでしたが今朝は稀に見る富士山ですクルーザーのセーリングも見られました諸磯湾..................................................................................................
今朝の富士山撮影:荒崎・和田浜2024年2月27日 8:30三浦と横須賀の堺付近にある和田浜と荒崎に出掛けました薄っすらとガスがかかる状態で強風が吹いてました
和田浜海岸荒崎海岸.......................................................................................................
今朝の富士山撮影:三崎・海戸湾2024年2月26日 10:00
連続で富士山が臨めました。僅かに上空に雲が見られます昨日は午後から雲に隠れましたが、夕景が楽しみです
...............................................................夕方の富士山撮影:諸磯湾
2024年2月26日 17:25日没時まで富士山が見られました
......................................................................................................今朝の富士山撮影:三崎・諸磯、海戸湾2024年2月26日 8:20
昨日に続いて富士山のコントラストは見事でした今朝は海戸港まで足を伸ばしてみました.........................................................................................................今朝の富士山撮影:三崎・諸磯湾2024年2月24日 8:24
数日続いた雨で冷気が入り、稀に見る空のブルーと富士山のコントラストにシャッターを切りました......................................................................................................今朝の富士山
2024/1/29 8:48
海戸海岸
.................................................................................................
今朝の富士山
三戸海岸 2024/1/27 11:28
久しぶりに三戸海岸まで足を伸ばして見ました江ノ島方面まで何とか見ることが出来ました
....................................................................................................
今朝の富士山
2024/1/26 9:04
寒気が入り積雪も増えたことで
シーズン最高の富士山です。
........................................................................................................
2024年1月16日
諸磯湾:今日の富士山
昨日の強風と寒気が入った関係でクッキリした富士山が臨めました。夕景も期待したいと思います。
湾岸の富士山
2024年1月
...........................................................................................2024年1月8日
諸磯湾:今日の富士山
撮影時の気温は3℃(最低気温)でした。問具合に雲が架かり撮ってみました。.............................................................................................................
2024年 元旦の富士山
本年も宜しくお願い致します
強風が吹き荒れました北風と冷気が入りスッキリした富士山が臨めました
........................................................................................................
浜諸磯の夕景
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日没時の夕景思ったより染まりませんでした
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怪魚ハンター 世界をゆく
http://budoukyo.exblog.jp/30731651/
2024-01-22T17:31:00+09:00
2024-02-01T11:30:05+09:00
2024-01-23T10:40:46+09:00
budoukyo
旅の物語
冒険家・小塚拓矢
2024年1月22日(月)第一話
今回、冒険家:小塚拓矢によるエッセイ「怪魚を釣る」をお送りいたします。
東北大学で、ハゼを研究していた学生時代から、巨大淡水魚を追いかけ、これまでに世界56ヶ国で、釣りに挑んできた小塚拓矢、怪魚との格闘さながらの旅は、多くの釣人達の冒険心を、掻き立てていた。
第一話は、小塚にとっての怪魚の定義について
怪魚とは何ですか?、と聞かれることがよくある。
実はこれが難しい。
そもそも自然を定義するということは容易なことではないし、学術用語として怪魚という言葉が無いからだ。
怪しい魚、と書いて怪魚と呼ぶくらいだから、人それぞれの捉え方があって良いだろうと思うし、本来定義なんてものが無いからこそ、未知を追い求める楽しみも生まれるのだろう。
しかし、怪魚釣りを一般の方に説明する際には、そうも言っていられない。
そこで僕は、淡水域に生息し、体長1メートル、もしくは体重10kgに成長する巨大魚、を怪魚と称し、超えるという言い方をしていないのは、仮に発見されている最大の個体が、90cm程度の魚種であっても、そこまで成長するならば、人知れず1メートルを超えた個体が居る可能性も否定できないからだ。
一方で、2メートルを超える魚の場合は、1メートルを越えた若魚の時点で怪魚になってしまうので、表現に幅を持たせている。
また、同じ種類の魚でも、大きさと重さのバランスは、個体によって異なるため、定義の基準として、体長と体重の両方を競ってしておくことは重要だ。
これは、人間を例にして考えると理解しやすい。
仮に、体の大きな男性の定義を身長190cmを超える男性、とした場合80キログラム前後の人もいれば、180キログラム以上の人もおり、体重の個体差は倍以上の開きが出てしまうだろう。
体の大きな男性の藩中には、背が高いだけで極度に痩せた人も入る。
それでも背が高くて割腹も良い男性のみ対象とするのかを判断するためには、身長と体重の両方に基準を設けて置く必要があるわけだ。
野生生物の場合、環境に律せられて人間ほど不自然なばらつきは生まれないものの、魚は種類によって栄養が様々だ。
日本に住んでいるナマズのように尻尾が細くて、余り肉がついていないようなものは、長さの割に体重は軽い。
逆に海の魚で、ハサクエのようにコロンとした体系の魚は重い、何れにしても生物は体の殆どが水分なので、どんな魚でも発泡スチロールと、鉛ほどの比重差はない。
サバのような紡錘状の形状を標準体型とすると、およそ1メートルで10キログラム前後となる。
そこで、キリのいい数字ということもあって、これを自分なりの怪魚の定義とする。
また淡水魚の場合、それぐらいの大きさとなると生息している水域において生態系の頂点たる主になってくる場合が多い。
そこに、淡水魚に限定する意味の一つがある。
ただ、最初からこの定義が有ったわけではなかった。
怪魚釣りの旅を進めていく中で、取材を受けるようになると、怪魚の定義に付いて質問される機会が増えた。
しかし、当初は釣りたいと思う魚を、直感的にリストアップしていただけなので、自分にとって怪魚とは漠然とした枠組みに過ぎず、それをどう言葉にすればよいか分からなかったのだ。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月23日(火)第二話
世界56世界56ケ国を旅を旅し、怪魚と呼ばれる巨大淡水魚を釣ってきた小塚拓矢
今話は、そんな彼なりの怪魚の定義を考える切っ掛けとなった巨大魚ハンターとの出会いについて紹介する。
目標を数字化するように成ったのは「ヤコブワーグナ」というチェコ人に出会ってからだ。
彼は、世界的巨大魚ハンターで、出会った当時、雑誌「ナショナル・ジオクラシック」で巨大魚保護プロジェクトという規格を進めていた。
「ヤコブ」は100キログラムに成長する巨大淡水魚を「フレッシュウオータージャイアンツ」と称し、地球上に生息するその全てを釣り上げることをライフワークとしていた。
これは飽くまでも僕の個人的印象だが、体長1メートル、若しくは体重10キログラムを怪魚とするならヤコブの云う「フレッシュウオータージャイアンツ」は、怪物と呼びたくなる。
というのも、100キログラムの魚とは、長さで凡そ2メートルにもなる超巨大魚だからだ。
生物の体はほぼ水で出来ているので、大きな魚も、小さな魚も、長さが2倍であれば、重量は2の3乗倍で8倍、理論上は80キログラムとなる。
ただし、生物の多くは、巨大化するに連れて長さ以上に太りだす。
生息環境のキャパシティや骨よりも、肉のほうが成長し安いという生理的な理由など、様々な要因が重なり、概して餌環境が良ければ、ある程度大きく成った個体は。長さよりも太さで巨大化する傾向にある。
だから2メートルで凡そ100キログラムは彼の言葉でいう「フレッシュウオータージャイアンツ」、僕の言葉で言う「怪物」の目安として妥当だと思う。
生物の名称には、学名の他、日本語では和名、英語では英名がある。
しかし、かつては、生物の形態により名称を決めていたこともあり、例えばナギナタナマズという和名の魚は、実はナマズとは関係なかったりする。
そのため、魚を最も客観的に呼ぼうとすれば、世界共通の名称であり、属名とシュショウメイで構成されたラテン語の名称で呼ぶことになるわけだ。
ヤコブが魚を学名で呼ぶのには、彼の親族が生物学者をしていることが関係しているのかも知れない。
「フレッシュウオータージャイアンツ」という呼び名といい、100キログラムという明確な定義付けといい、ヤコブは巨大魚を自分なりの魚のカテゴリーとして捉えようとしているのかも知れない。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月24日(水)第三話
巨大淡水魚いわゆる怪魚を追いかけ、世界世界56箇所を旅しを旅してきた「小塚拓矢」そんな、小塚が怪魚ハンターを初めた頃のはなし。
魚を釣るために大切な物もの、それは技術や道具などでは無い。重要なのは、情熱と情報だ。
何処に行けば釣れるのか?それを調べるところから旅は始まる。
そして集めた情報を集約し、最終的に釣りに至るまでの過程が肝心だ。
なかなか出会うことの出来ない怪魚を前に、途中で挫けそうになることもある。
そんな時は、この魚に出会わなければ、帰れないという熱い想いが心の支えと成り、忍耐力を産む。
しかし、本音を言うと、純粋な思いだけでもない。
その魚を釣るために費やした膨大な時間と金を思えば、とても途中で諦めることなど出来ないのだ!
また、誰かに先を越されたくないという思いも当然ある。
もしも、自分に釣り上げることが出来なければ、その魚を狙っているライバル達が喜ぶだろう!その顔を想像すると何としても釣ってやる!という勇気が湧いてくる。
特に、怪魚釣りを始めた頃は、目的とする旅を終えたら、就職活動をする積もりだったので、ここで釣らなければ、もう2度と来ることは無いだろうと思っていた。
出会いたい、というよりも出会わないと帰れない。
という一念で釣ってきたという感じだ。
最初に怪魚釣りの旅に出た2004年は、ちょうどインターネットが個人による情報発信手段として利用され始めた頃、SNSという言葉もスマートフォンも無い時代だった。
2005年に初めてパプアニューギニアに行った時は、肌感覚で伝わってくるような個人サイトは見当たらず、結局見つかったのは商業目的のサイトだけだった。
一応、そのサイトの運営者に連絡はしたものの、希望の場所に行くにはツアーを手配せねばならず、そのためにかかる経費は学生である僕の予算を遥かに越えていた。
仕方が無いので、パプアニューギニアまで取りあえず行ってみることにした。
実は、事前に釣り雑誌で「パプアニューギニアのフラリ川流域」にある村に行けば「パプアンバス」という巨大魚が釣れるという情報を得ていた。
先ずは、この村を目指し、その後さらに足を伸ばそうと考えた。
しかし、旅に誤算は付きものだ。
第一目的地で、大魚を釣り上げた後に熱を出して倒れてしまった。
そのため、予定していたお基地に行くことは叶わなかった。
大きな病院など無いような村だったので、検査はしていなのたが、あの関節痛はマラリアだったのだろう?
当時、居候していた家の主で、村一番のワニ漁師「ワビル」には、本当に世話になった。
これが縁とになり、「ワビル」一家との付き合いは今でも続いている。
泣く泣く、断念した奥地への途上だが、2013年には「ワビル」のサポートを得て再挑戦した。
しかし、8年越しの挑戦も虚しく「パプアンバス」を釣ることは出来なかった。
予想外だったのは、上流にある上鉱山から奥地へと物資や資本が流入していたことだ。
奥地はワブルの村よりも、近代化していたのだ。
結果として分かったのは、ワビルの村こそが、この流域で最も文明から距離をおいており、魚も残っている場所だと云うことだった。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月25日(木)第四話
大学時代から巨大淡水魚を追いかけ世界を巡る小塚拓矢、その釣りのスタイルは時代とともに変化を遂げている。
今日は、そんな中でも変わらない、怪魚釣りを成功させる秘訣に纏わる話。
近年ではインターネットが急激に発達しNSNを使って手軽に情報を得られるようになった。
しかし、だからこそ僕はへき地を旅する際にインターネットから距離を置くことにした。
未知を求めるという旅では、時にはインターネットがお節介な存在となる。
ネットに上がっている情報とは、結局のところ誰かの後追いでしか無い。
それならば、自分の足で情報を探したほうが面白いのだ。
一方で、社会人になってからは始めた、核心地域の旅ではインターネットをうまく活用し、時間とお金の配分なども徹底的に検討する。
グーグル・アースの航空写真で確認したポイントへレンタカーで乗り付けるというケースも多いが、良くも悪くもコストパーフォーマンス重視の方法だ。
北米やヨーロッパ、オーストラリアなどの先進国では、そもそも釣りのライセンスを購入しなければならない。
また、釣具店には詳細なポイントマップがあり、一日に釣り上げて良い匹数が事細かに決められている。
先進地域を旅する際のスタンスは、未知を求めるという辺境でのそれと、大きく異なる。
コスパさえ良ければ、迷わず現地ガイドを雇い何不自由の無い旅行を楽しむこともある。
人との関わりは怪魚釣りの成功を大きく左右する。
こいつに釣らせてやりたい!
と、思ってもらえなければ、魚を釣るのは難しい。
そこで海外に行く時は、カバンに小さな玩具を詰めていき村の子供達と積極的に遊ぶようにしている。
子供たちと仲良くなれば、子供の親とも親しくなれる。
そして、彼らと同じ釜の飯を食う。
幸い、これまでの旅で取り返しの付かないような事態に陥ったことは一度もない
ただし、流れに身を委ねているうちに、うまくいくことも有れば、付き合う人を何度変えても、”ここだ”という場所にたどり着けないこともある。
人との付き合いやすさは、国によってかなり異なる。
例えば、アマゾンの奥地は危険だという人もいれば、みんなが豊かに生きていて優しい人が多いという印象が強い。
また島国であり、小さな民族単位の村社会で成り立っているパプアニューギニアには、人を気遣う気質があった。
そのため、みなまで言わずとも、求めていることを汲み取って動いてくれる人が多く、とても居心地が良い。
一方で、僕が訪れたアフリカは、そんなに生易しくは無かった。
外国人と見れば、お金に対してあけ付けで、おまけに、強く自己主張をしてくるので言い争わなければならないことが多い。
毎日、喧嘩ばかりだった。
最も、本音をぶつけ合う日々のお陰で、というべきか、東アフリカのイギリス植民地文化圏に凡そ2ヶ月滞在した間にそれまでほとんど話せなかった英語が随分と上達した。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月26日(金)最終話
世界56ヶ国を旅し、大冒険さながらに巨大淡水魚を釣ってきた怪魚ハンターの小塚拓矢、そんな小塚が、アフリカで挑んだ「怪魚ムベンガ」を巡る冒険。
「ムベンガ」というのは現地名で、学名は「イドロキンス・ゴライア」旧約聖書に出てくる、巨人兵器「ゴリ」宛の名に関する通り最大全長は2メートルを超えるといわれているが、何処まで大きくなるのかは誰も確認できていない。
ピラノアと同じ、カラシンモクというグループに属し、特徴的な巨大な牙は魚というよりもネコ化の猛獣だ。
金色の体色に、黒い縦縞が入る見た目から、英語では「ゴライアスタイガーフイッシュ」と呼ばれる。
アフリカ大陸には、5種類のタイガーフイッシュが生息しており、このうちコンゴ河のゴライアスタイガーフイッシュ、すなわち「ムベンガ」が最も巨大化するだろうということはわかっていた。
コンゴにいた2009年は、要約治安が回復し初めた頃だ。
現地に行っても余り情報は得られなかった。
地元の漁では「ムベンガ」のように、急流に居る巨大魚は狙わない。
ブッシュのないアフリカでは、漁に必要な網は貴重品で、値段は漁師の1年分の収入ほどにもなる。
万一、岩にでも引っ掛けて上げられなくなったら大変なことになる。
そのため、現地のどの場所で見たとか、何十年も前に西洋人が、一匹釣ったという話はあったものの、それが何匹居る内の一匹なのかは、分からなかった。
分母がわからないと、それが情報として信頼できるものかどうか、判断はつかない。
そこで、最初の一ヶ月は自分の経験から、居るだろうな?と思ったポイントを廻ることにした。
しかし、それでも釣ることが出来なかった。
つまり、元々数が非常に少なく、何処に行こうが、難しい魚だったのだ。
こうなると、最初に聞いた目撃情報や、一匹釣れたという話は、信頼に足る話だと判断できることになる。
ここからは、もう動き回らず、一箇所に腰を据え、村の漁師に、餌に使える適切な大きさの魚20~40cmが取れたら生きたまま持ってくれるように頼んだ。
それを餌に、粘りに粘り日本を発って53日めに要約、納得の行く一匹を釣ることが出来た。
僕は、迷ったら動くようにしている。
もうこれ以上動いても無駄だというところまで動き続けないと迷いは晴れない。
その結果、動いても無駄だと結論できれば、待つことが出来るようになる。
根本的に季節が間違っていると気づいた時には、潔く撤退することもある。
しかし、それを単なる失敗だとは考えない。
この場所では、この季節には釣れない!
という情報が蓄積されたと考える。
そして季節を変えてリトライする。
こうした経験を積み重ねて実際に釣りをする環境を整えることこそが・・
怪魚釣りの醍醐味だと言っても過言では無いだろう・・・。
Edit : Norio Murakami
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ハワイ50の宝物(Ⅱ)
http://budoukyo.exblog.jp/30490657/
2024-01-16T10:21:00+09:00
2024-02-01T11:30:49+09:00
2023-11-14T10:03:36+09:00
budoukyo
旅の物語
自然写真家 高砂淳二のフォトエッセイ集
2024年1月15日(月)第一話
今日は、ハワイの宝物2つをご案内いたします。
ハワイと言えば、アローハ・・小さい子供でも知っている言葉だ。
こんにちわ、や、さようなら、などの挨拶としても使われたり、アロハスピリットなどとも云うように、愛を表す言葉でもあることは多いに違いない。
「アローハ」という言葉は、元々どんな二アンスのある言葉なのだろう?
アロは分かち合う、眼の前のとかの意味があり、オハは挨拶するや、好意、喜びなど。
オハが挨拶なんて、おはようのオハみたいだ。
ハ、呼吸する、神からの息吹、生命などの意味がある。
つまり、眼の前の神の息吹や、喜びを分かち合う、といった大変な意味を持った言葉なのだ。
アロハには、実はもう一つの意味があると言われている。
ちょっと、日本の標語のような雰囲気もあるのだけれども、こんな内容だ。
アロハの初めのアは「アカハイ」の頭文字で、「優しさ」
エルはロカシの「調和」
オオはオルオルで「楽しさ」や「心地よさ」
エイチはハアハアで「謙遜」
エイは「アオルイ」で忍耐を意味する。
ハワイに行くと何だか、みんな優しい気持ちになってしまう、という話を聞くけれども、こんなに素晴らしい意味を持った言葉を心の底に持っているからだろう。
因みに、シャツの方のアロハは、もともと日本人が移住してサトウキビ畑の重労働に従事していた時に暑くても動きやすい形に、着物から作り直したものが始まりだとされている。
なので、その柄は当然、鯉や鶴、桜、松の木などが多かっようだ。
今はそれが椰子に代わり、鯉はイルカに代わっている訳で自然をモチーフにしてわけで、自然をモチーフにしているアロハシャツには未だにしっかりと、日本が息づいている。
と、いう訳だ。
マンタといえばダイバーなら、一度は出会ってみたい、と思う海の大物。
でかいものは、六条間くらいもあるという巨大なエイの仲間だ。
そのマンタにハワイ島で、しかも神秘的は夜の海で出会う。
マンタはその大きな口を開けて、そのまま水を丸ごと飲み込み、水の中にいるプランクトンなどをフィルターのようなエラで濾し摂って食べる。
人間には被害を加える恐れのないエイだ。
もともと、コナサーフホテルというところの街灯が海を照らして所にプランクトンが沢山集まり、それを知ったマンタ達がプランクトンを食べに夜な夜な集まるようになったというわけ。
水中に潜ってライトを点灯させると、エビのような形や細長い紐状のもの、クラゲのようなものなど、無数の小さなプランクトン達が集まり、ライトの発光部に団子のように固まってくっついてくる。
そこに巨大なマンタが50センチほどの大口を開けて、ドーンと迫ってくるのだ。
マンタにはライトに照らされたプランクトンしか、目に入ってはいないようで、勢い余ってダイバーにぶつかってきたり、頭やお腹で、ズリッとこすって行ったりすることもある。
とにかく、ど迫力な出会いなのである。
今は、別の場所でもマンタが集まるところが発見され、
ダイバー達がマンタの大晩餐会を、夜な夜な見学しに行って、感動の悲鳴を上げている!
Edit : Norio Murakami
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2024年1月16日(火)第二話
今日は、偉大なるサーファーの海の旅をお届けします。
古来、ハワイアン達は何の計器も持たず、小さなカヌーで、大海原を何千キロも航海した。
昼間は太陽を、夜は星を、そして波や風などから、位置や方角を割り出しながら、航海したのだ。
その、失われつつある古来の航海法を再現しようということで、1975年グラスフィバー製ではあるけれど、昔と同じ2本の帆を持つ双胴タイプのカヌー「ホクレア号」が作られた。
翌年、第一回目の初航海でマウイを出発して、何とタヒチにたどり着いてしまった。
先祖が辿った海路を、古代の航海法で、見事に再現した。
ところが、1978年の2回目の挑戦は、悪夢のような航海になってしまった。
3月16日マウイを出港後、僅か数時間で「ホクレア」は、嵐に見舞われ、4メートルの高波を横っ腹に受けて転覆してしまったのだ。
クルー全員が、荒れ狂う海に投げ出された。
この時のクルーの中に「エリー・アイカウ」が居た。
彼は、オアフのワイメアベイで40フィート(12メートル)もの大波に挑んだ偉大なサーファーだった。
「エディなら行くぜ、エディ・ウッド・ゴー」という言葉で知られた彼は、ヤイメアベイの初代ライフガードとして多くの命を救った。
「エディ」は、ごく当然のことのように、真っ暗な海を、積んであったボードに乗ってクルーの救助を求めるために、パドリングで19キロも離れたラナイ島に向かった。
他のクルーは転覆した「ホクレア」に掴まったまま、翌日発見されて無事救助されたが、エディはパドリングで荒波に向かうその後姿が、最後となってしまった
深い悲しみが、ハワイ中を駆け巡った。
後に、6メートル以上の波がないと行われない「ビッグウエーブ・サーファ」のための大会が、偉大なる「エディ」の名を永遠に残すために模樣された。
通称「ザ、エディ」と呼ばれるサーフ大会だ
オクレアプロジェットは深い心のキズを負ってしまったのだけれども、「エディ」の意志を継ぐためにも、太平洋に繋がる古代の知恵をつなぐためにも、今も様々な海を渡り続けている。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月17日(水)第三話
何処か人を寄せ付けない、或いは近寄っては成らない、というハワイの2つの宝物を届けします。
「マウナケア」とは広い山、という意味、ビッグアイランドの北部にそびえる4千メートルを超えるハワイ一の高山だ。
常夏の島、ハワイなのにこの山の頂上では、雪が振り、冬には頂上付近が白く雪化粧をすることから「マウナケア」という名前がついた。
冬にはスキーも出来るから、4千メートルの雪山でスキーをした後、ビーチまで降り、水深30メートル海底でスキューバ、ということも可能なのだ。
僕は、車から山頂に降り立った途端、その場にへたり込んでしまった。
マウイの「ハレアカラ」は、まだ優しさがあるけれど、この「マウナケア」は、人間を寄せ付けない別世界の厳しさを持つ山だ。
夜の山頂で、望遠鏡で土星を見た。
子供の頃、百科事典で見た不思議な宇宙が広がっていた。
真っ暗な、薄い空気の中で、僕は地上に居るのか、宇宙を漂っているのか、分からなくなるような不思議な感覚を味わった。
映画などでよく船が難破して、太平洋の島に漂着して、その密林に踊ろ脅しい石の祭壇があり、そこで現地の人々が祈りを捧げたり、生贄を捧げたりするシーンが登場する。
あの祭壇は、ハワイのヘイアウやタヒチのマラエ等から連想しているのだろう。
ハワイのヘイアウとは、古代ハワイの寺院とか神前の場所を指すもので、宗教的儀式を行ったり、祈り、霊との対話などに使ったと言われる。
自然や神々を敬い、それらとの繋がりを大事に生活してきた古代ハワイアンには最も大事なことの一つだった。
今も強いマナが宿る場所として、信心深い人々からの捧げ物が絶えない。
かつては、本当に生贄を捧げたりもしたことがあったようで、本当はヘラヘラと旅行者が興味本位で見物するような場所ではないのだ。
そうした習慣は、ハワイだけではなく、タヒチ、イースター島、フィジーなど太平洋の島々島にあったらしい。
昔は素朴で平和だった、と、つい思いがちだけれども、昔は昔で生贄儀式や迷信も存在するなど、人間は色んな過ちをしでかしたりして、一歩一歩成長したり、ちょっと後退したりを繰り返しながら、
・・・・・貴重な学習をしているのかも知れない。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月18日(木)第四話
祝福として、ハワイの2つの宝物をお届けします。
ハワイでは、レイはアロハのシンボルであるとされ、挨拶や友情、愛情などの印として、お互いに何かの記念日や、パーティ、お祝いなどの時にプレゼントし合ってい。
スポーツの試合などの時には、優勝した選手が、応援に来ていた友人にレイを貰い、余りにもレイの数が多くて、頭が殆ど隠れてしまったりすることもある程だ。
マレーは、神聖な気高さを表す葉で、キタケは愛情を表す花、という具合にレイに使う花や葉は夫々意味を持っている。
もともとレイは花で出来た物だけでなく、貝や、ナス、葉っぱ、鳥の羽根、骨、海藻など色んなものから作られていた。
古いものには、マッコウクジラの歯を、フックの形に削って作られた、酋長クラスの人が身につけるような、めづらしいレイも有ったそうだ。
最近は、キャンディやドル紙幣などの物まである。
先日僕は、カナダの先住民の友人に会いに行ってきたのだけれども、別れ際100年以上前の酋長が身につけていたものという先祖から伝わる大事な首飾りを、僕に呉れた。
それはフック状に曲がった、イーグルの爪とその間にムースの歯が入ったもので、見るからにパワーの詰まった威厳のある首飾りだった。
先住民たちが住んでいる場所は、もっぱら砂漠のような場所が多いからか、花で出来た首飾りは見たことがないけれども、ハワイの古い酋長が着ていたものと、同じようなものを、カナダの先住民の首長も付けていたというのも、なかなか興味深いことではある。
ハワイアンは時々、急に雨が降ってきたりすると「トレェシンガ・祝福だわ」と言ったりする。
自然現象には、何かしら意味がある、とするハワイアン達の、雨を表す言葉は、なんと300程もあるらしい。
古くから伝わるハワイの名称や伝説では、雨は感情や物事を象徴的に表すものとみなされ、軽いキリのような雨は喜びや生命、象徴、青葉などを表し、激しく冷たい雨は苦難や無関心、喪失感、悲しみなどをあらわす。
例えば、軽い雨として、キリ、オオキリ、ギリノエ、リハウ、ウワオア、まだ、まだある。
風に運ばれる美しい雨はデレフナ、レイ、ウアデレアカ、デレフネ
冷たい雨は、キリハウ、ウアアワ
にわか雨は、ウアナウ、タキオ、タキオフショ
どしゃ降りは、ウワランティ、ウワロク
大粒の雨は、ウワヘキリ、ワカク
飛沫のような雨は、エフ
こんな感じで、まだまだある。
また、雨を表す言葉の中には、特定の植物や動物、地名などを入れて、独特の性質や雰囲気を知的に表しているものも多い。
例えば、カウアイのルカコと呼ばれる雨は、熟したサトウキビの茎から乾いた葉を取り去る、という意味を持つし、オアフのオアイハラは谷間を巡る深い霧の中のファンダナスの木、という具合だ。
雨や風、晴れといった天気は日本語では、文字通り”天の気”ハワイアン達は昔から、天の気と人間の気や、自然の気が関わり合って気象として現れている、捉えてきたのだろう。
そんな観察力も凄いけれど、雨だけでこんなにイマジネーションをふくらませる事ができある感性も本当に凄いと思う。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月19日(金)最終話
雄大なハワイの自然の営みの物語をお届けします。
なんか・・地球じゃ無いみたいだな!
ハレアカラに初めて登った時の第一印象だ。
テッペンには大小の噴火口が幾つもあって、一帯は生命の匂いを微塵も感じさせない茶色の荒涼とした細かい溶岩に覆い尽くされた世界なのだ!
そんな、別の天体のような世界に余り生命感を感じさせない、宇宙っぽい植物が、ポツンポツンと生えている。
銀色の鋭い剣のような葉を持つシルバーソル、和名は銀剣草だ。
表面が銀色の薄い毛で覆われいるので、ハワイ語では、白髪なという意味の・アイナヒナという名を持つ。
ハレアカラの、高度2100~3000メートルにかけての、凡そ1000ヘクタールの原生地域にしか生えていない。
15年から50年の、一生の最後の、大きなものは2メートルもの花の房を実らせるという、ドラマチックな植物だ。
たまに、大きな花の房を付けたまま、地面にぐったりしたものを見かけることがあるが、如何にも長い一生を終えて、事切れた、という思わず手を合わせたくなるような姿を残し、故郷の宇宙へと旅立ってゆく、・・不思議な植物だ!
普通、ハワイ諸島と言われているのは、ハワイ島、マウイ島、ラナイ島、モロカイ島、カホオラレ島、オアフ島、カウアイ島、ニイハウ島、の8つの島だけれども、実は更に北西ハワイ諸島と言われる島々が何と、2000キロも北西に続いていて、全部合わせて「ハワイアンチェーン」と呼ばれているのだ。
ただし、この辺りは野生生物保護区に指定されているため、特別な許可を得ない限り上陸できないことになっている。
僕はこの北西ハワイ諸島の西端のミッドウェイ環礁に三度ばかり足を踏み入れた事がある。
飛行機から群用空港に降り立って、先ず驚いたのは、コアホウドリの圧倒的な多さだった。
飛行機で来たので、滑走路付近からは逃げてしまったけれども、その他のところは何処もかしこもコアホウドリだらけ!
空港から宿泊所に行くのにゴルフカートを使ったが、しばしばカートを止めて、彼らを追い払わなければならなかった。
このすごい数のコアホウドリ達、秋頃島にやってきて、繁殖活動を初め、12月には卵を産んで間もなくヒナが還り飛び立って行き、3月には島はもぬけの殻となる。
僕はダイビングをしたことがあるが、海には沢山のサメ達が集まっていて、子供が飛行に失敗して海に墜落するのを待ち構えていた。
この、健気なアホウドリ達、全然逃げないので卵を奪い取るのも、捕まえるのも簡単ということから、阿呆な鳥・・ということから「アホウドリ」となったとか!
しかし、絶滅寸前まで、ただお金のために取り続けた人間のほうが、もしかしたら、よほどアホウなのかも・・かも知れない。
ミッドウエーは人間にとっても、鳥達にとっても、本物の宝物に違いない!
Edit : Norio Murakami
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この道をどこまでも行くんだ
http://budoukyo.exblog.jp/30649996/
2024-01-09T10:04:00+09:00
2024-02-01T11:31:36+09:00
2024-01-09T10:04:31+09:00
budoukyo
旅の物語
作家:椎名 誠
2024年1月8日(月)第一話
今週は椎名誠のエッセイ「この道をどこまでも行くんだ」をお送りします。
椎名誠は1944年東京生まれ、千葉市で育つ、39歳の時インドへ取材旅行に行き「インドでわしも考えた」を雑誌連載、以来、世界中を旅し写真を撮り、文書や映画を発表している。
「この道をどこまでも行くんだ」は南米大陸からアジア、シベリアまで、その土地で出会った人や動物の営みを綴った一冊である。
今回は、その第一話「捕る」の章から「バイカル湖の穴釣り」
バイカル湖は、ロシアの中央シベリア南西部、モンゴルとの国境近くにある湖で透明度は世界一、大きさは、琵琶湖の47倍である。
バイカル湖は11月になると、全面凍結し更に、寒さの厳しい12月~1月になると、あちらこちらで膨張した巨大な氷の塊が、凍った湖面から浮き上がって、複雑な凸凹模様を作るようになる。
日本の諏訪湖の”御神渡り”を、もっととてつもなくでっかくしたようなものだ。
11月は湖面の氷は、平均して平らであり、氷の暑さは1メートルから1.5メートルほどになる。
この氷に穴を開け、魚釣りをするのが近隣の人々の楽しみになっている。
氷の穴あけ機は、氷屋さんで売っており、折りたたみ式で長さ3メートル程もある。
原理は簡単なネジ込ドリル式のもので、これを人力でぐるぐる回すと直径7~8センチぐらいの穴になる。
それでは、大きさが足りないので、あと2,3本を隣接したところに穴を開ける。
その準備で、30分ぐらいかかり、零下30℃ぐらいに中で汗をかくほどだ。
僕は、この穴あけ機に感動して買ってしまった。
日本に持って帰ったが、思った通りの使い道がなく、寂しく捨ててしまった。
釣りは竿を使わず、重りにスプーン型の疑似餌を糸につけて垂らしていく。
バイカル湖は深いから、2~30メートル辺りでしゃくる。
案外、簡単な仕組みだ。
当たりが来たら、糸をどんどん引き上げていく。
足元に溜まった釣り糸に、すぐに氷がつきはじめ、一番下に獲物が付いている。
体長2~30センチぐらいの「オーム」という、りくふう型のマスや鮭の仲間で、これを釣り上げると15秒ほどは、氷上でピョン、ピョン跳ねているが、やがて何かのマジックを見ているように、ダイブし固形化して動かなくなってしまう。
水温は0℃からマイナス3℃位なので、マイナス30℃の空気に晒されるとたちまち凍ってしまうのだ。
獲物によって、棚、深さが違い、熟練者は面白いように”じゃんじゃん”釣り上げるが、慣れていないものが釣ると1時間たっても、全く釣れる気配もない。
と、言うことになる。
「オオムイ」は、とても美味しい魚で食べ方も簡単だ。
先ず、連れた魚を家に持って帰り、その日は、そのまま家の外に並べて置く、一晩置くと骨までカチカチに凍ってします。
食べる時は、よく切れるナイフや包丁で、いとも無造作に、頭から尻尾まで好みの厚さに切っていく、皮は食べないが頭から尾まで身はきれいに剥がれていくので、それをそのまま塩などをつけて食べるのが一番美味い。
大型のルイベを食べているようなものだ。
これは何も屋外でやる必要はなく、湖内でも同じことが出来るので、氷上に小さなテントを張り、そのそばで釣りをすれば、数時間で同じような料理が食べられる。
ウォッカ等を飲みながら、程よく凍ったオオムイをナイフで切っては、塩を付けてバリバリ食っている様子は極寒地帯でなければ味わえないような”特上のごちそう”とわかる。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月9日(火)第二話
今日は「異次元」の章から「馬のつらら」シベリア北東部、現在のサハ共和国の都市「ヤクーツクへの冬の旅」
椎名は、遊牧される馬たちと出会う。
シベリアのヤクート自治共和国、今のサハリンに行った時のことだ。
美しい建物や街中を流れる川、その回りの樹氷が際限なく広がるマイナス30度の「シベリアのパリ」と言われるイルクーツクから飛行機で移動した。
ここには、ヤクーツクという中心都市があり、数十万の人々が暮らす北の外れの、そこそこ大きな街だ。
しかし冬の今、気温はマイナス40℃から45℃まで下がっていくので、外に出るには例え街中といえども、それなりの防寒をしなければ成らない。
街のそばにはレナ川というバイカル湖付近から北極圏まで繋がる長大な河が流れていて、左右はいわゆるツンドラの不毛の河原になっている。
冬になるとレナ河には、平均して厚さ2メートルにもなる氷が張り、左右の河原に積もった雪も、載積して行くことになるから、レナ川付近にゆくと、とにかく強大な白い平原が何処までも伸びている光景になる。
そんなところでも、ヤクート人が遊牧の仕事をしており、一日の内の最も温かい時に、あくまでも比較的というレベルだが、飼育している馬を河原の辺りに放す。
馬は最初からかなり元気よく走り回っているが、口や鼻から吐き出される息が大気に触れた途端に凍って行くのが、人間の目でもよく分かる。
生物の体から、吐き出される息は水分をたっぷり含んでいるから、空中に出た途端に凍ってゆくのが見えるというわけだ。
そんな馬の群れを見て改めて感じるのは、この極低温の中を走り回っている馬は、みんな、詰まりは裸だということだ!
勿論、全身はこうした場所に適応した、かなり密度の濃い毛で覆われているが、体から出てくる汗が、その長い体毛に伝わった途端にそれぞれが凍っていく。
だから、茶色や黒い毛の馬に乗って30分も走らせると、体毛の全てに氷が張り付き、ちょっと見ると、白馬に変身したように見える。
馬は走りながら、口からよだれを流すのだが、それが、顎の下でそれぞれに氷っていきヨダレの氷柱が出来上がる。
まつげにも、上昇してきた、自身の息が絡みつくから、何だか白い”付けまつ毛”をしているように見える。
この時、気がついたのは何もかも氷らせていく、極寒地獄の中でも眼球だけは、先ず凍らないという事実だ。
これは、帰国して色々な生物学の本を読んでわかったことだが、人間を含めた眼球動物の眼球の表面には、常にゆっくりと水分が流れていて、それが為に眼球の表面が凍ることを免れているのである。
放牧された馬たちは、蹄で固く凍った河原の雪や氷を蹴り続けて、その奥に押し潰されている、やはり固く凍った苔などを見つけて食べていた。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月10日(水)第三話
「異次元」の章から「マイナス40度世界での生活」
シベリア北東部、現在のサハ共和国の都市、ヤフースクのオイヤコン、人が住んでいる世界一寒い地域の生活とは・・、
シベリアの冬を2ケ月ほど放浪していた。
この地の冬は本当に寒く、顔を空中に出しておくと、10分ぐらいで顔面全部が凍結する。
特に鼻が最初にやられることが何度もあった、零下40度はあった。
この時、僕は40歳、至る所を好奇心だけで旅しており、世界で一番寒いエリア、オイヤコン群を過ぎたところだった。
オイヤコンは人が住んでいるところでは、世界最極寒地帯だ。
因みに、地球で一番寒いところは南極の、零下82度だった。
この時、色々世話をしてくれたのは、極北の遊牧民フルタの人達だった。
ロシア語のさようなら「ラスビダーニャ」位しか、ロシア語を喋ることは出来なかったが、彼らとの交流はいい思い出だ。
彼らと会ったのはヤフースク、いまの「サハ」であり、地球最北の遊牧民であった。
場所はレナ川の西と言っても、河は全面凍結していたから、何処から何処までが河で、河が何処までかはまるで分からなかった。
レナ川は全長400キロ、凍結期が終わると北極海に向かって流れる。
しかし僕が行った時期は、上流から河口まで全部カチンカチンに凍っていた。
河が見えないので、どのくらいの幅があるのかは分からなかったが、少なくても300メートルほどはありそうだった。
そのくらいの幅があると、幾つもの橋核を建てなければならない。
でも、春が来ると河の氷が溶けてどんどん流れていく。
その巨大な氷塊が橋脚に次々にぶつかり、橋そのものを破壊していくから、余程大きな吊り橋でも作らない限り無理だと思う。
対岸との交通は、こうした厳寒期に、凍った川の上を歩いて行くのだそうだ。
川の上の氷を、ブルドーザーなどを何度も走らせ、平らにして車を走らせるようだ。
こういう極限の寒さの中でユルタの人達は、馬やトナカイの遊牧をしていた。
仕事着は熊の毛皮とフェルトの帽子だ。
呼吸をすると顔面の表層に上がっていく、それは帽子や帽子から飛び出ている毛髪などに全部付着し氷結する。
どの人もそうだった。
勿論、我々もそのようになっていた。
喋ると、新たな息が顔面を凍らせていく。
襟巻きで、口まで覆って置かないと、顔面が凍傷になりやすくなる。
凍傷はだいぶ進んでから出ないと、自覚症状がないので怖い。
時々、互いに顔を見て注意し合う。
常に摩擦して血流を促さなければならない。
何もかも、異次元の世界だった。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月11日(木)第四話
「雲と命」の章から「ペンギンと暮らした」
今回の旅はパタゴニアから500キロほどにある南大西洋のイギリス領オークランド諸島、鳥の島でのテント生活である。
人家というものはなく、自炊のテント生活になるが、ペンギン達は、それほど頻繁に人間と接してはいないからだろう。
人間が近づいても平気な顔をして突っ立っているし、こちらが夕食の支度で何か作っていると、煮炊きの煙が珍しいのか、近くに寄ってきて5、6羽で、ガーガーやりながら見物している。
人間が何か大道芸人を見る時のように、等間隔でぐるりと輪を作って、ペンギンはペンギンの言葉でワシャワシャキャーキャーひっきりなしに何か離している。
その様子が、こいつらは一体何者だ!
余り美味しそうでないから、自分等の食べ物には成らないけれど、まぁ退屈だから暫く眺めて見っか!
というような、態度に見えてしょうがない。
この島には結構長くいたが、ペンギンは州によってコロニーの形態も大きさも違う。
キングペンギンは大きさも1メートル前後もあり、胸を反らせて歩くところなど、なかなか勇壮である。
次によく目につくのは、ニワトリペンギンロックホッパーでそれは、一旦顔を見ると忘れられない。
まるで歌舞伎の暗どりをしているように、ピンと左右に跳ね上がった黄色い眉とちょっと、ガンヅケしているような目が、なかなかのものだ!
ニワトリペンギンは岸壁に住んでいて、海から餌を取ってくると、短い足ながら驚くべき跳躍力で、段差のある岩の上をポンポン飛んでいって
高さ10から20メートルの断崖に作った自分の巣にキチンと帰って行くのである。
ちょっと帰りがけに、そこらに寄って、一杯ひっかける、というような堕落した我々の世界と程遠く、全身が強い意志の塊となって間違えず、自分の妻子のところに帰るのだ。
その他にも、穴蔵に住むゼンツウペンギンやアベリーペンギンがいる。
彼らは、大きさも、餌も、暮らし方も、少しずつ違っていて、それ故に、かち合うことも無いので、別種族同士が争うということは先ず無いそうだ。
ある時に、キングペンギンのそばに我々はテントを張ってしまった。
その日からの彼らのオシャベリには、ほとほと参った、夜が更けても十数羽のペンギンが集まって、オシャベリしているとしか思えない熱心さで泣き続けている。
きっと、亭主の悪口をいっているに違いない。
と言いながら、夕食後にそんな風景を眺めていた。
そんなオスは、海の中を結構ちゃんとすっ飛んでいき、小さな魚を沢山喉につまらせるという蓄積漁法というようなものをやっている。
それらを吐き出すとヒナの餌になるのだ。
彼らは海の断崖で岸に上がってくる時が素晴らしい!
うまく浪に乗って、いきなり飛び出てきて、陸地に垂直に”ストン”立ち上がるのだ。
その着地のすライルが、まるでオリンピックの何かの競技のようで、思わず・・9点6、なんて書いたカードを掲げたくなる。
そういうものを持っていれば・・・!
の話だ!
Edit : Norio Murakami
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2024年1月12日(金)最終話
最終回は「雲と命」の章より、ミャンマーの僧侶、東南アジアの仏教国ミャンマーの若者達が朝早くから僧侶の修行や勉強に励む姿に出会う。
仏教国ミャンマーを歩くと、おびただしい数のお坊さんに出会う。
朝、まだ誰も居ない風景を写真に撮ろうと、初めて歩いた時だ。
一つの広い道の角から、3,4列の緩やかな隊列を作った数百人のお坊さんが、托鉢用の入れ物を持って整然と黙って歩いてくるのに出会って、びっくりした。
ミャンマーでは、ある程度の年齢、日本でいうと小学校高学年ぐらいになると出家して洞院で生活し、托鉢のために寺の周辺の街々を巡り歩く。
朝食のためのお布施を乞う行列である。
オレンジ色の、片肌脱ぎの僧衣を、揃って托鉢のための容器を抱えている。
こうした僧侶の托鉢は、毎日決められた時間に行われるので、多くの家々がその行列がやってくるのを朝のそれぞれの料理を作って、待っているのだ。
僧侶らはそうしたご飯や、料理を除いて、中に何が入っているか確かめる素振りを見せてはいけない決まり・・と、聞いた。
更に、托鉢を乞う僧侶及び食べ物を施す人は、決して顔を見つめてはいけない、という厳しい掟がある。
どうしてなのか?通訳に聞くと、そうして互いに見つめ合った者同士が、それを機に男の僧侶と尼僧の重要な禁忌を破って、例えば恋愛感情などに発展してゆく可能性があるから、という理由だった。
それと同時に、どの家の人がどんなものを寄品したか?その関連をはっきりさせないようにする。という戒めも存在している。
更に僧侶らは、まじまじと見つめたり、好きなものを先に手にする、というような行為も禁止されている。
多くの僧侶は寺に付随した、道場のような板の間で寝起きする。
寝床を上げると全員で、素早く部屋の掃除をしてから、街への宅龍に出かけるのだ。
寺には、まだ一人前に成っていない小坊主達が居てその後勉強をすることになる。
学校のようなイスや机は一切なく、授業前のその様子を見ていたら、子供の僧呂見習いらは大きな道場を兼ねる板の間のそこかしこに座り先生の来る前は、一心にその日学ぶ科目の予習に集中する。
でもその日は珍しく外部からカメラを持った外国人が居て、僕のことでありますが、それが気になるらしくいつまでもザワツイていて、落ち着かず、年長の僧侶にあちこちで叱られ、やっと思い思いの方向に向いて自習体制に入っていったのだった。
やがて僧侶の先生がやってくると、みんなはその姿勢のまま先生の方向に向いて、いよいよ本格的な勉強になるのだ!
見ていると先生は古い木箱に入った経典のようなものを出しそれを読み上げ始めた。
生徒たちは教師の語る内容を記録していく、そして段々と教義の深いところを学んで行く体制になっていくようだった。
因みに、生徒は、常に僧衣を着ている。
Edit : Norio Murakami
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評価:ファインダーに佇む彼女と見つめ合い、シャッターを切って旅に終わりなし、道はどこまでも続いていく――
国内はもちろん、チベット、シベリア、パタゴニア……世界中のさまざまな道を歩いてきた。訪れる土地土地には、人の、動物の、あらゆる生き物の営みがあった――。カメラのレンズを通してその躍動を見つめてきた著者が、スケール感のある写真と瑞々しい文章で綴った地球の記録。命の輝きに触れ、思いがけない光景に出会える紙上のワールドツアーにいざ出発。どこまでも行こう、目の前に広がる果ての知れないこの道を!
来週は高砂淳二「ハワイの50の宝物」
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書き下ろしの物語
http://budoukyo.exblog.jp/30605501/
2023-12-31T14:07:00+09:00
2024-02-01T11:32:15+09:00
2024-01-02T11:09:26+09:00
budoukyo
旅の物語
作家:藤石波矢
2024年1月1日(月)第一話
あの日、ローマは平日だった。
終わりを認めたくない夏が、地団駄を踏んでいるような日だった。
トレビの泉の前を通りかかった僕は、眼の前の石畳を転がるコインを見つけた。
拾い上げると日本の五円玉だ。
異国の地で手にする真鍮の硬貨は頼りない迷子に見える。
「済みません、・・私のです」
人混みを分けて現れたのは、彼女だった。
黒くしなやかな髪が風になびいていた。
「そいつが、元気に転がって行ってしまって」
僕は指でつまんだ、そいつを見つめる。
この五円玉は、迷子などではなく、元気に駆け回っていたのか!
五円玉を手渡すと、彼女は礼を言ってから、僕の顔を見上げた。
「日本人のかたですか?」
「えぇ、仕事で、たまたまローマに」
「お仕事でしたか?」
「フォトグラファーです」
僕が首に下げた一眼レフを見つめて成る程と頷いた。
彼女の方は観光客だった。
「もしかして、トレビの泉に5円玉を投げるんですか?」
今度は僕が質問した。
彼女は微笑み頷く「えぇ、ご縁があるように・・」
「神社のお賽銭みたいに?」と、僕が聞くと、
彼女は「似たようなものです」
きっぱりした物言いに僕も笑っていた。
彼女は泉に目を向けて、そしてトレビの泉の言い伝えを諳んじた。
投げ入れるコインが・・・、
一枚なら、またローマに来ることが出来る。
ニ枚なら、愛する人とずっと一緒にいられる。
三枚なら、今のパートナーと別れられる。
僕が言う、「縁切りが一番高く付くんですね!」
彼女は、貝殻を模したネックレスを指で撫でた。
「子供の頃、家族で来たことがあって、一枚投げたんです!」
「だから何時かまたローマに行かなきゃって、軽く強迫観念みたいになっていた、本末転倒ですね!」
僕は又笑った、そして訪ねる「今日は五円を一枚投げるんですか?」
「はい」
「一緒に投げますか?」
僕は投げてもイイかという気持ちになった。
ポケットからユーロコインを取り出し、彼女と並んで泉に投げ入れた。
彼女は「秋月美玲」といった。
一人旅だという。
「食事でもしませんか?」と誘ったのはどっちからだったかな!
僕の好きなレストランに行った。
「一人旅の楽しみを奪ってしまったな」
「奪われたと思ったら帰るんで・・ご心配なく」
歯切れが良いな、秋月さんは!
「ローマのビザ見たいでしょ」美玲が笑う。得意げで魅惑的な笑みだった。
僕達は無邪気な程に話をした。
今日まで来た道を教え合うように・・。
美玲は仕事を辞めたばかりで、今は長い夏休みなのだと言った。
「我慢することを、我慢している職場なんで」
「苦しかったんだね!」
僕が言うと、美玲がたずねた。
「フォトグラファーの苦労は?」
「うん、仕事を得ること」
美玲は「身も蓋もない」と苦笑した。
「撮影技術は二の次なんだ」イチに営業、ライバルは多いし、フリーランス足元を見られる。
美玲は僕に「泥臭さとは無縁に見えるけど!」
「自由に見える?」
美玲は、目を細めて僕を見る。
「羽が生えているように見える?」「でも飛べないよ・・!」
結局、ワインのボトルが2本空いても帰ることはなかった。
グラスに残った、最後の一杯を飲むとき、美玲は僕を見つめた。
「これを飲んだら、夏休みが終わる」
食事を終えて、日が暮れた街を歩く、ライトアップしたコロッセオが見える通りで美玲が立ち止まる。
それぞれのホテルに向かう分かれ道だった。
「じゃぁ、ご縁があればまた」少し戯けて美玲が言う。
僕は、ワインで染まった頭で、引き留める言葉を探していた。
うん、「チョット一枚写真を撮らせてくれないかな?」
美玲は、不意をつかれたような表情をした。
焦る僕は「記念」と言い足した。
「秋月さんの門出の記念に」
「思いでを残してくれるの?」
「思いでは残るんだ!」
美玲が静かに頷く。
僕は、ファインダーに佇む彼女と見つめ合い、シャッターを切った。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月2日(火)第ニ話
仕事でローマを訪れていたフォトグラファーの僕は、トレビの泉の前で秋月美玲という名の日本人女性と出会った。
仕事を辞めたばかりで今は、長い夏休みだという彼女、僕達はお互い今日に至るまでのことを教え合うように話続けていた。
パスポートのスタンプのように旅の思いでは増えていく。
でも美玲は、思いでには成らなかった。
日本に帰国してから僕達は再び会った。
5円玉の縁を互いに手繰り寄せて、結婚したのは2年後のことだ。
この出会いは奇跡だ。
幸せになると、僕は疑っていなかった。
美玲の新しい職場は、服飾関係で、美玲は水を得た魚のように成果を出していった。
我慢だけを強いられて時間を取り戻すように、未来を切り開いて行く姿は眩しかった。
僕は、相変わらずだった。
仕事は、途切れこそしないが、現状を維持するだけの日々が続く。
発展がなく、成長もない。
美玲の話を聞き、美玲の輝きに目を細める。
僕は美玲に何の輝きも与えていない気がした。
久しぶりに、二人の休みが合ったのはある夏の日、僕は半ば強引に美玲をドライブに誘った。
美玲が言った。
「じゃぁ、海に見られに行こう」
「海を見に、じゃなくて」
「ウン、そぅ、幸せな私達を見せに行く」
その時、幸せ・・と、美玲は自分に言い聞かせて居る気がして、心細くなった。
「美玲は僕と結婚して幸せなのか?」
「勿論だよ」
助手席の美玲が答えた。
「どうして?」
空いたウインドウからは強気な潮風が流れ込んで、美玲と僕の体を打つ。
「美玲を幸せに出来ている気がしないから」
「何・・それ」
美玲は笑った。
美玲は目を伏せて言う。
「着いたら話したいことがある」
「話したいこと?」
「うん、夢みたいな事を」
その時だった、前方にトラックが迫ってきたのは。
なぜ進行方向が反対のトラックが眼の前にいるのか、理解できなかった。
反射的に出来たのは、ブレーキを踏むことだけだった。
ズン、という衝撃で意識は闇に落ちた。
次に気がついたとき、路上に投げ出されていた。
前方に僕の車が見える。
その車内には美玲がいる。
頭から血を流し、目を閉じている。
「嘘だ、何だこれは」
必死に腕を伸ばす、体が動かない。呼吸ができなくなる。
美玲もピクリとも動かない。
名前を呼ぼうとするが、声に成らない。
目がかすむ、だめだ!助からない、そんな・・
僕がドライブに誘わなければ・・
いや、結婚しなければ、出会わなければ・・
絶望と後悔の渦に飲まれて、僕の呼吸も止まった、筈だった。
気がつくと、人が行き交う石畳に立っている。
古の街、ローマのトレビの泉の前だ。
混乱した。
夢か!、死の間際の走馬灯か!
だとすれば、野心がない。
僕は胸に触れた。
傷がないなんてありえない。
その時、キンという音が鼓膜を震わせた。
数秒後、僕の靴に当たったのはユーロコインだ。
反射的に拾い上げた。
「あっ」と、硬化を追い駆けて来たのはショートヘアの少女だ。
少女の顔を見た途端、僕は息を呑んだ。
美玲だ!、と思った。
顔立ちに、色濃い面影がある。
そして、美玲が母親からプレゼントされた一点ものだと言っていた。
見間違える筈がない。
だが、どう見ても相手は、十代半ば、二十歳はいっていない。
ならば、これは、いま僕が居るのは、過去・・なのか?
Edit : Norio Murakami
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2024年1月2日(火)第ニ話
新しい職場で、活き活きと働く妻の美玲と、仕事が途切れずとも、影響のない日々を送るフォトグラファーの僕。
美玲は僕と結婚して幸せなのだろうか?
そんな不安が募る中、久しぶりに出かけたドライブで、僕らは事故に巻き込まれた。
遠のく意識、しかし、ふと気がつくと僕は美玲と出会ったイタリアのトレビの泉の前に居た。
そして、そこで出会ったのは、幼い頃の美玲の面影を感じる少女だった。
理解が追いつかないが、納得するしか無い。
事故にあった僕は、十数年の時間をさかのぼり、海を渡りローマで目を覚ましたのだ。
「あの~・・」、はっとする。
いつまでも硬貨を渡さない僕を見て、少女は怪訝そうにしている。
「あぁ・・、ごめん」
僕は硬貨を返した。
「ねぇ、おじさん、掃除っていつ終わるんだろ、私もうすぐママが迎えに来ちゃうのに」
僕は、トレビの泉に目をやった。
そこには、水が無かった。
代わりに男性たちが、ホースで水を撒いたり、デッキブラシで底を磨いたりしていた。
定期清掃だ。
「時間にルーズなイタリア人だからねぇ」
「そうか、投げられないじゃん、コイン」
脳に描かれたのは、美玲が話す思い出だった。
子供の頃、家族旅行で来たことがあって一枚投げたので・・、そう言っていた。
だから、再びローマを訪れて美玲は僕と出会った。
僕は、不服そうに清掃員を眺める少女を凝視した。
美玲がコインを投げてしまえば、僕と出会う美玲を呼んでしまうことになる。
そして彼女は、不幸な事故に巻き込まれるのだ。
僕のせいで・・。
時間が経つに連れ、僕は自分がこの世の者ではないことを実感した。
言葉で上手く表現できないが、確かに石畳を踏みしめているのに、地に足がついていない感覚だ。
この体は、カリソメなのだとわかる。なぜ、こんな軌跡が起きているのだ。
この身に起きたタイムリークに意味があるのなら~
それは、美玲が僕と出会わない未来をつくることでないか!
「仕方ないかァ・・」
少女はそう言ってから僕の顔を見る。
「ありがとね~おじさん」
そう言った少女の視線が、僕のお腹の辺りに刺さる。
僕は初めて自分がカメラを下げていることに気づいた。
「あぁ、おじさんフォトグラファーなんだ」
どこか・・、ぼんやりと僕を見た。
「へぇ、かっこいい」
少女の目がカメラから僕の顔に写る。
「ねぇ、おじさん、撮ってくれる」
「うぅん、何を」
「わ、た、し」
「あっ、お金が必要」
「いゃぁ、何というか?」
「見知らない子に写真を撮ってという子は珍しいから」
「オジサンに着いてちゃ駄目なの?」
僕は死んだ上にタイムリークした男だ。
「世界一怪しいと言ってもいい」
少女は「そうかも知れないけど・・」とバツが悪そうな顔をした。
その表情にも見覚えがある。
「美玲」と思わず名前を呼びそうになるのをこらえた。
「こんな機会は無いのね!」少女は堅苦しい口調になっている。
「密かな夢があるんです」
はっと息を呑んだ。
子供の頃からに密かな夢!
事故の寸前に美玲が言いかけたことが・・。
「わたし、モデルに成りたいの!」
「モデル?」
「そう、旅先のスナップ写真など撮ってさぁ、見た人が自分もその場所に行きたい、自分も同じポーズで写真を撮りたいって思われるようなモデルさん」
少女の声が熱を帯び
「この夢誰にも言えないけど・・どうせバカにされるから」
「知らなかった!美玲はモデルに成りたかったのか!」
もしかしたら、もう一度、その夢に挑もうとしていたのだろうか?
「なのに・・・」
Edit : Norio Murakami
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2024年1月4日(木)第四話
フォトグラファーの僕と、妻の美玲、夏のある日僕らは事故に合ってしまう。
車から投げ出され遠のいていく、しかし、ふと気がつくとそこは美玲と僕が出会った場所、イタリア・ローマ、
トレビの泉の前だった。
そこで出会ったのは、将来モデルになるのが夢だという、まだ幼い頃の美玲の面影を残す少女だった。
僕は過去にタイムリークしてしまったのだ。
少女は、僕に写真を撮って欲しいとお願いしていた。
「やっぱり駄目かな?」
と少女は言った。
「いいよ、少しだけ!」
僕は踏み出す気持ちで、そう答えていた。
トレビの泉の清掃は終わる気配がない。
このまま終わらなければ、美玲には、幸せな未来が待っている筈だ。
僕達は泉を離れてコルソ通り方面に歩きだした。
尚さら、やるべきことをやらなければという気持ちにかられた。
僕に美玲と出会わない方向を選ばせること。
途中で細い路地に入る。
路上駐車の車と街路樹が、ぽつりぽつりとある。
「試しにここで撮ってみよう」
僕はカメラを構えた。
「さぁ、こっち見て」
「うん」
ファインダー内に少女が佇む。
シャッターを切る。
「ネー、おじさん、目線とか指示して」
一丁前の物言いに苦笑する。
ふぅ、
「じゃぁ、左手の建物の2階を見上げて」
少女は言われた通りにした。
真剣な目だった。
遊び感覚では無いのだ。
と、思って僕も身ずまいを正した。
シャッターを切る。
「じゃぁ次は、しゃがんでみて」
「あぁ、目線はこっち」
少女は画になった。
美玲なのだから、当たり前だった。
僕はもっと美玲の写真を撮りたかった。
なぜ忙しさにかまけていたのだろう。
分かち合えたはずの時間を自ら手放してしまったのだ。
後悔をかき消すように指示を出し、シャッターを切り続ける。
「いいなぁ~とっても素敵だ」
少女は、
「おじさんもかっこいい、プロ感がある」
はっ、
「プロだからね」
と、僕は言った。
数分してから、場所を移った。
そして、撮っていく。
アドリアの神殿の柱を数えるように歩く少女は、名前も知らない教会を覗き込み、少女は、僕の知らないことの妻の笑顔を撮っていく。
少女が腕時計を見た。
「ママとの待ち合わせはスペイン広場なの」
「分かった、向かおう」
「その前にもう一度トレビの泉に行ってみる」
「あぁ・・」、「でもどうせだらだら掃除は続いているよ」
「かも知れないけど・・もぉ、一回」
「ねぇ、お願い」
懇願されたら、引き止める術は無いから道を引き返した。
少女は「いろいろ無茶を言ってゴメンね!おじさん」
「ううん、夢、膨らんだかな」
「夢、叶ったら奇跡だよね」
戯けた少女の目はさっきまでの輝きを忘れていた。
「私だってちゃんと現実は見るけど」
「でも今日は楽しかった」
無限の可能性が広がる若者に見えても、彼女の一寸先には、闇が迫って居るのだろうか?
味気なく、冷たい現実が・・、
そして、好きだはない仕事に追われ、職場環境に苦しみ、遂にやめる日が来る。
新規一転の海外旅行で、ローマを再訪して僕に出会ってしまう。
恋をして、結婚し、僕のせいで不幸な事故に遭う。
僕の知っている美玲の人生。
駄目だ僕と出会う未来を変えなくては、愛する人の未来が幸福で無ければ!
僕は、自分のカメラを軽く叩きながら、正直思った。
奇跡は起きる。
君は僕に声をかけて、写真を撮らせた。
奇跡を起こすための準備をしたのだ。
これから、時間をかけて、一つづつ準備をして行けば良い。
美玲が遠回りをしなければ、僕と出会うこともない。
願いを込めるつもりで、僕は言った。
少女は不思議そうな顔で、頷いた。
Edit : Norio Murakami
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2024年1月5日(金)最終話
ドライブ中に交通事故にあったフォトグラファーの僕と妻の美玲、車から投げ出され遠のく意識の中、ふと気がつくと美玲と出会った想いでの地、イタリア・ローマのトレビの泉の前に居た。
投げ入れるコインが1枚ならまたローマに来ることが出来る。
2枚なら、愛する人と、ずっと一緒に居られるという言い伝えのあるトレビの泉。
そして、そこに現れたのは、美玲の面影を感じさせる少女だった。
もしこれが過去ならば、将来、美玲が事故に合わないよう、僕と出会わないようにと、僕は画策していた。
せっかく遠ざけたのにトレビの泉に戻ってきてしまう。
そして泉の掃除は終わっていた。
少女は「ヨシッ」と笑った。
「どうしても投げたかったんだ」
ユーロコインを取り出している。
僕は訪ねる。
「どうして?」
少女の美玲は強い理由を抱いていたのだろうか?
「ローマにはまた来たいから」「ママとパパは出会った街なんだって」
それもトレビの泉の前で!
「えっ?」
少女の横顔を呆然と見つめる。
眼の前の景色が変わった錯覚を覚える。
「君、名前は?」
少女は。
「アッ、言ってなかったっけ」
「秋月夕香っと言います」
「夕方の香りが好きなんだって」
「特に夏の・・」
僕は聞いた。
「ママの名前は?」
「うん、美玲だよ」
大きな勘違いをしていたことに僕は気づく。
僕が来たのは、過去ではなく未来だ、目の前にいる少女は僕の娘、僕は、夕香に聞いた。
「ママは元気かね」
声が震えそうになる。
「うん、元気だよ」
「生きてるんだね!」
夕香は怪訝そうな顔をしながら頷いた。
それでも僕は聞いた。
「パパは?」
あぁ「むかし、車の事故で死んじゃったって」
「ママも怪我をしたけど、助かったって」「その時、お腹には、私が居たんだって」
あの日、美玲が話したかったのは、妊娠したこと、夢を見たこと。
夕香は言った。
「パパは写真が殆ど残ってないの」「フォトグラファーだから、何時も撮ってばっかりだったんだって」
僕は耐えきれず涙を流して、顔を覆う。
夕香が言った。
「叔父さん、笑ってんの?、泣いてるの?」
「両方さ!」
としか、僕はいえなかった。
何か言いかけた夕香が、スマホを取り出した。
「あぁ、ママからだ、ここに来るって」
「美玲がここに!」
そう思ったとき、体が揺らぐ、体の奥の結び目が解けていくのが分かる。
奇跡の時間がもう終わるのだと悟った。
僕はポケットに手を入れた。
きっと入っているだろうと思ったものが、入っていた。
五円玉だ!この五円玉をニ枚、一緒に投げてくれないか!
と夕香に言った。
夕香は・・、
「一緒に?」「自分で投げないの?」
「うん」コインを投げる君を見ている。
夕香は首を少し傾げてから頷いた。
人混みをかき分けて泉を背にする。
石像の神々が、優しく夕香を見守っている気がした。
「行くよ、叔父さん」
僕はカメラを構える。
「あぁ、いつでも」
夕香が握りしめた、二枚のコインを投げる。
シャッターを切った。
二枚投げれば、愛する人とずっと一緒に居られる。
僕は、きっと美玲と夕香も一緒に居られる。
私も思い出を残せたかな?
夕香が泉を振り返って言った。
幸せな思い出は残るんだ。僕は言った。
夕香がもう一度振り返ったとき、僕はもう居ない。
体が一人、音もなく解けていく。
誰にも気づかれることなく、あるべき場所に帰っていく。
僕と入れ違うように黒髪を結いた女性が走ってきた。
夕香より先に声をかける。
夕香の口が「ママ」という形に動くのを確かに見た。
「美玲だ・・」
二人が石畳に置かれたカメラを手に取り、美玲がハッとして空を見上げる。
目が合う。
変わらず、美しかった。
羽は生えていないけど、飛びながら微笑んで、風に消えた!
Edit : Norio Murakami
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『走ることについて語るときに僕の語ること』 第9章
http://budoukyo.exblog.jp/30557088/
2023-12-24T16:00:00+09:00
2024-02-01T11:34:09+09:00
2023-12-24T16:22:58+09:00
budoukyo
旅の物語
村上春樹
2023年12月25日(月)第一話
「作家が描く世界への旅」今週は、作家・村上春樹のメモワール『走ることについて語るときに僕の語ること』より、第9章をお届けします。
作家、村上春樹のランニングを巡る回想録
「走ることについて語る時に僕の語ること」この本は多くの国で翻訳され世界中のランナーの愛読書となっている。
実は村上はマラソンだけではなく、トライアスロンの大会に何度も出場している。
水泳、自転車、そして10キロのラン、作家はスイームスーツに身を包み、新潟県村上市の海岸に立ち、過酷なレースのスタートを待っていた。
確か16歳の頃だったと思うが、家人が居ないときを狙って、家の大きな鏡の前に裸になって自分の体をしげしげと観察してみたことがある。
そして、自分の体の中で、普通よりも劣っていると思えるところを、一つ一つリストアップしてみた。
リストは全部で27まで言ったと記憶している。
27まで数えて、その辺で流石に嫌になって、点検するのを止めてしまった。
そして、こう思った。
目に見える肉体の各部を取り上げただけで、こんなにいっぱい普通より劣っているところが見つかるのだから、それ以外の領域、例えば輪郭や頭脳や運動能力に足を踏み入れていったら、それこそ切りが無いに違いないと・・、勿論17歳といえば、恐らく皆さんもご存知のようにトビッキリ面倒な歳だ。
細かいことが、いちいち気になるし、自分の立っている位置が客観的に掴めないし、何でも無いことで妙に得意になったり、コンプレックスを抱いてしまったりする。
歳を取るによって様々な試行錯誤を歴て、拾うべきものは拾い、捨てるべきものは捨て、欠点や欠陥は数え上げれば切りが無い。
でも、良いところは、少しぐらい有るはずだし、手持ちのものだけで、何とか凌いで行くしかあるまい。
という、諦めの境地に至ることになる。
しかし、鏡の前で裸になって、自分の肉体的な欠点を列挙した時の、いささか情けない感覚の記憶は、僕の中に、今でも僕の中の定点となって残っている。
それから40年ばかりの歳月を経て、黒いスイームスーツに身を包み、ゴーグルを頭の上に上げ、海岸に立ってトライアスロンレースのスタートを、そざいなげに待っているうちに、その時の記憶が、ふと蘇ってくる。
僕はこれから、1,5キロを泳ぎ、40キロを自転車で走破し、10キロを走ろうとしている。
そんな事をして、何がどうなるというのだ。
底に小さな穴の空いた古屋根に、せっせと水を注いでいるだけの事ではないのか!
何れにせよ、文句のつけようのない程の見事な天気だ。
絶好のトライアスロン日和、風はなく、波一つ無い。
太陽は温かな光線を地上に注ぎ、気温は23度くらい。
水温も申し分ない。
僕がこの新潟県村上市のトライアスロンレースに出るのは、これで4度目だが、大体何時も酷いコンディションだった。
ある時は、海が荒れすぎていて、水泳の代わりにビーチランをやらされた。
そこまでゆかなくても冷たい秋雨がしちしと降ったり、波が大きくてクロールの呼吸が出来なかったり、寒さに震えながら自転車を漕いだり、それはもう・・散々な目にあってきた。
だから、こんなに静まり返った、こんなに静かな海を目の前にすると、何だか騙されているような気持ちになる。
いやいや、簡単に信用するわけには行かないぞ!
と、思う。
これはただの見せかけで、実は予想もできない酷い落とし穴が、途中に待ち構えて居るのかも知れない。
Edit : Norio Murakami
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2023年12月26日(火)第ニ話
トライアスロンは、1.5キロを泳ぎ、40キロを自転車で走破し、10キロを走るという、過酷なこのレースは海からの水泳で始まる。
海に近いところで育った村上春樹は泳ぎが得意だった。
ただ何故かレースでは、上手く泳げない。
作家はクロールの泳ぎ方を改良することを決心した。
トライアスロンのレースに参加するには、長短を取り混ぜこれで6度目になる。
でも2000年から2004年まで4年間トライアスロンから遠ざかっていた。
どうしてそんなに空白期間が有るかと言うと、2000年の村上トライアスロンで、レース中に突然泳げなくなってしまったからだ。
それで棄権を余儀なくされた。
そのショックから立ち直って、体制を立て直すのに、時間を食ってしまったのだ。
どうして泳げなくなったのか?
その原因もなかなか判明しなかった。
あれこれ考えたし、自身も失ってしまった。
どんなレースであれ途中棄権するというのは、生まれて初めての体験だったから、突然泳げなくなった。と書いたが、正確に言えば、トライアスロンの水泳部門でツマズイたのは、この時が初めてではない。
僕は、プールでも、海でも、割に楽に長距離をクロールで泳げる。
1500メートルを33分ぐらいで普通に泳げる。
特に早くは無いけれどレースには充分ついて行けるペースだ。
海の近くで育ったから海での泳ぎにも慣れている。
プールで何時も練習している人が、海で泳ぎづらかったり、恐怖を感じたりすることはよくあるが、僕の場合は違う。
むしろ海で泳ぐ方が広々しているし、浮力がある分、泳ぎやすいくらいなのだ。
ところが、いざ実際のレースとなると、何故か上手く泳げない。
ハワイオアフ島の賓満レースに出場したときも、クロールで泳ぐことができなかった。
海に入って、サー泳ぎだそう、とすると途端に呼吸ができなくなってしまった。
その時に、近くの人に何度か脇を蹴られた。
競争だから、これは仕方ない。
みんな、人の前に出ようとするし、最短コースを取ろうとする。
泳ぎながら肘打ちを食らったり、蹴りを入れられたり、それで水を飲んだり、ゴーグルが外れたり、そんな事は日常茶飯事だ。
でも僕の場合、最初のレースの出鼻で、強く蹴られたショックで、泳ぎのバランスが狂ってしまったのかも知れない。
そしてスタートのたびに、その記憶が蘇るのかも知れない。
今ひとつ、腑に落ちなかったが、レースはメンタルな要素が大きいから、その可能性は充分に考えられる。
もう一つ、僕の泳ぎそのものに、何か問題があるのかも知れない。
僕のクロールは、あくまで自己流で専門家のコーチを受けたことは、一度もない。
特に不自由なく、いくらでも泳げるのだが、無駄のない美しいフォームとはいえない。
どちらかと言うと、力任せに泳いでしまうタイプである。
もし本格的にトライアスロンをやるのであれば、何時か泳ぎ方を改造しなくてはなと、前から考えてはいた。
この際、メンタルな方面での原因を追求するのと並行して、クロールのフォームの方を解決しておくのも悪くない。
技術的な欠陥を詰めていけば、それと連動して、別の問題も明確になって来るかも知れない。
という訳で、僕のトライアスロン挑戦は、ひとまず4年間の空白を置くことになる。
Edit : Norio Murakami
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2023年12月27日(水)第三話
新潟県村上市で開かれるフルマラソンの当日となった。
この日のために厳しいトレーニングを積んできた村上は、緊張しつつレースのスタートラインに立った。
秋晴れの日曜日の、朝9時半僕はこうして村上市の海岸線に立ち、レースのスタートを待っている。
幾分緊張しつつ、しかし、過呼吸に陥らないように充分注意しながら、念のためにもう一度装備の点検をする。
コンピュータチェックのためのアンクルブレスレットは、しっかり付いている。
水から上がった後素早くスイームスーツが脱げるように、ワセリンを体に塗った。
ストレッチも念入りにやった。必要な給水も取った。トイレにも行った。
やり残したことはない、・・・多分。
何度もこの大会には出ているから、中には顔見知りの人もいる。
そういう人達と時間待ちの間に握手をしたり、世間話をしたりする。
僕は余り、人付き合いの良い方ではないが、トライアスロンの選手たちとは気楽に素直に話をすることが出来る。
連帯感というほど偉そうなことではないにしても、温かい共通感のようなものが、我々の間には漠然と、晩春の2年かかったモヤのごとく存在する。
そういう意味においては、村上トライアスロンは実に手頃な大会である。
参加人数もそれほど多くないし、大会運営も仰々しくない。
小さな地方都市の、手作りの地方大会である。
街の人達も暖かく応援してくれる。
ごてごてした過剰なところが無く、おっとりしたところが僕の好みに合っている。
大会そのものとは関係ないけれど、湯量の豊富な温泉もあるし、食べ物も美味しいし、地酒の稲刈り酒もうまい。
レースに通っているうちに、現地にだんだん知り合いも増えた。
9時56分にスタートのサイレンが鳴る。
みんなが一斉にクロールで泳ぎ始める。一番緊張する一瞬だ。
僕も頭から水の中に突っ込みキックする、両腕で水を掻く、余計なことは脳裏から追い払い、空気を吸うことよりも吐き出すことに意識を集中する。
心臓がドキドキする。
上手くペースが掴めない。
体が幾分固くなっている。
例によって、誰かが僕の肩口を蹴飛ばす。
誰かが、背中から体の上に、のしかかってくる。
亀の甲羅に、よその亀が乗ってくるみたいに、お陰で少し水を飲む、でも大した量でない。
慌てることはない、と自分に言い聞かせる。
パニックを起こしてはいけない。
呼吸を規則正しく繰り返す、それがいちばん大事なことだ。
そうしているうちに、少しずつ、ヒト目盛りずつ、体の緊張がほぐれて来るのが分かる。
うん、これで何とか上手く行きそうだ。
この調子で泳ぎ続ければ、良いのだ。
一旦リズムを掴めば、後はそれを維持していくだけだ。
しかしやがて、トライアスロンレースにとっては、ある意味避けがたいことではあるのだが、予想もしなかったトラブルが僕を待ち構えている。
クロールをしながら顔を上げて、前を向き方向を確認しようとすると、あれ・・、方向がろくすっぽ見えないのだ。
ゴーグルが曇っている。
1500メートルの水泳の間、ゴーグルの曇りに悩まされた。
前もって予想したよりも、タイムは悪かった。
かなり真剣に練習したので、実力から行けば、もっと早く泳げたはずだ。
しかし危険すること無く、兎に角最後まで泳ぎ切ることが出来た。
Edit : Norio Murakami
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2023年12月28日(木)第四話
スイームスーツを脱ぎ捨てて砂浜から海沿いの道へ、トライアスロンは水泳の次に自転車で40キロを走破しなければならない。
作家でありランナーである村上春樹は、賢明にペタルを踏み続ける。
そして一番得意なランニングへ、古くて美しい町並みを走り抜け、市役所前のゴールが見えてくる。
砂浜に上がり、これが、簡単そうで意外に難しいのだが、自分の自転車の置き場に直行し、窮屈なスイームスーツを、もぎ取るように脱いで、バイクシューズを履き、ヘルメットを被り、風防サングラスをかけ、水をごくごくと飲んでから、公道に出ていく。
バイクのコースは、笹川流れという有名な海岸線で、所々海の中に奇岩がそびえ、風光明媚なところだ。
村上市から、海岸沿いに北上し、山形県との県境近くで折り返し、同じコースを戻ってくる。
抜いたり、抜かれたりすことは気にせず、ペダルの回転数だけを一定に保つことだけを意識して、軽い目のギアーで足を確実に回し続ける。
定期的に、ボトルに手を伸ばし、手短に給水を取る。
そうするうちに、だんだんバイクの本来に感覚が戻ってきた。これなら行けそうだ!
と言う気がしてきたので、折り返した辺りから、思い切って重めのギアーに切り替え、スピードに乗り、後半で7人ほどを抜いた。
しかし、調子に乗って自転車の後半で力を入れすぎたお陰で、ランに移ってからの切り替えが、本当にキツかった!!
一応走っているのだが、走っているという感覚が、殆どない。
僕は3部門の中では、走るのが一番得意だから、普通ならランの部門で30人ぐらいの人を角く抜くのだが、今回はそうはいかなかった。
10人から15人位しか、抜けなかった。
村上市の古い美しい街並みを、市民の応援を聞きながら必死に走り抜け、全力を振り絞るようにしてゴールインする。
嬉しい瞬間だ。
色んな、きつい思いをしても、予想外の展開があっても、一旦ゴールインしてしまえば、全てはアッサリと消えてしまう。
ほっと一息ついた後で、バイクの部門から競り合う形になり、何度も、ひつこく、抜きつ抜かれつしてきた、ゼッケン329番の人と、にっこり握手する。
お疲れさま、最後の方でペースアップしてもう少しでこの人を抜けたのだが、3メートル程、及ばなかった。
走り始めて、少しして、シューズの紐が解け、2度ばかり立ち止まって、結び直さなくては成らず、お陰で時間を無駄にした。
もしそれがなかったら、きっと抜けていたはずだ。
勿論全ての責任は、レース前にシューズのチェックを、おろそかにしていた自分にあるのだが、何れにせよ、レースは終了し、村上市役所前に設けられたゴールに、めでたく走り込むことが出来た。
溺れもせず、パンクもせず、悪質なクラゲにも刺されず、凶暴な熊にも体当りされず、スズメバチも見かけず、雷にも打たれなかった。
何より、嬉しかったのは、今日のレースを僕自身が、心から個人的に楽しめたことだった。
他人に自慢できるようなタイムではない。
細かい失敗も数多くした。
でも僕なりに全力は尽くしたし、その手応えのようなものは、まだ体にほんのりと残っている。
2023年12月28日(木)第四話
2023年12月29日(金)最終話
作家として長距離ランナーとして、走ることの意味を村上春樹が語る。
なぜフルマラソンを走るのか?
なぜ過酷なトライアスロンレースに挑むのか?
それは自分が生きているという確かな実感を得られるのでは無いか!、と
トライアスロンというのは3つの競技が組み合わさっていて、それぞれの繋ぎの部分が難しい分、経験が大きく物を言う競技である。
経験によって肉体能力の差をカバーして行くことは可能だ。
言い換えれば経験から学んでいくことが、トライアスロンという競技の喜びであり面白みなのだ。
勿論肉体的には苦しかったり、精神的に凹んでしまう局面も、時としてあった。
でも、苦しいというのは、こういうスポーツにとっては前提条件みたいなものである。
もし、苦痛というのがそこに関与しなかったら、いったい誰がわざわざトライアスロンやらフルマラソンなんていう手間と時間のかかるスポーツに挑むだろう!
苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことを、敢えて求めるからこそ、自分が生きているという、確かな実感を少なくともその一端を、僕らはその過程に見出す事ができるのだ。
生きることのクォリティは、成績や数字や準備といった、固定的なモノにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されて居るのだという認識にたどり着くことも出来る。
結局のところ、僕らにとって最も大事な物事は、殆どの場合目には見えない。
しかし、心では感じられる何かなのだ。
そして本当に価値のある物事は、効率の悪い鋭利を通してしか獲得できないものなのだ。
たとえ虚しい行為であったとしても、決して愚かしい行為では無いはずだ。
僕はそう考える。
実感として、そして経験則として・・・。
僕はこの冬に、世界の何処かでフルマラソンレースを一つ走ることになるだろう?
そのようにして季節が巡り、年が移って行く。
僕は一つ歳を取り、おそらく小説を一つ書き上げていく。
兎に角、目の前にあるタックを手に取り、力を尽くして、それらを一つ一つ粉して行く。
一歩一歩のストライプに、意識を集中する。
しかし、そうしながら同時に、なるべく長いレンジでものを考え、なるべく遠くの風景を見るように心がける。
何と言っても僕は、長距離ランナーなのだ!
僕のような、ランナーにとつて先ず重要なことは、一つ一つのゴールを自分の足で確実に走り抜けて行くことだ。
尽くすべき力は尽くした。耐えるべきは耐えた。
と、自分なりに納得することである。
そこにある失敗や喜びから、具体的などんなに些細なことでも良いから、具体的な教訓を学び取って行くことである。
そして時間をかけ、歳月をかけて、そのようなレースを一つずつ積み上げて行って最終的に何処か特進の行く場所に到達することである。
或いは、例え僅かでも、それらしき場所に近接することだ。
もし、僕の「墓誌銘」なんてものがあるとして、自分で選ぶことが出来るなら、このように刻んで貰いたいと思う。
村上春樹・作家
そしてランナー、そして最後まで歩かなかった。
それが僕が望んでいることだ・・。
来週は藤石波矢:書き下ろしの物語
Edit : Norio Murakami
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